牧師室より

臨床心理学者の河合隼雄氏とノンフィクション作家で大学教授の立花隆氏と詩人の谷川俊太郎氏の三人が「読む力・聴く力」というテーマでシンポジュームを開き、その時の講演と対談が出版されている。「読む、聴く」は「話す、行動する」などに比べて受動的であるが、深いところで人間の精神活動を支えていることは間違いない。今日、新聞やテレビはもとより、パソコンやインターネットの大幅な普及によって情報量は飛躍的に増した。しかし、それらの情報が社会の変革や人間の生き方にどれほどの力になっているかを問うシンポジュームである。

河合氏はカウンセラーであるから、聞くことに専念している。耳で聞くのではなく、体で聴くと語っている。その聴き方の実際を披瀝しているが、見事と言う他ない。相談者はスーパーバイザーにじっくり話を聴いてもらって「またやろう」という気が起こってくる。そこまで聴き続けるスーパーバイザーは疲れ切る。学会で「河合先生のスーパーバイザーは誰ですか」と質問された。「私のスーパーバイザーは二人いる。モーツアルトさんとバッハさんです」と答えた。分かるような気がする。

立花氏の読書量は圧倒的である。また、インターネットで集める情報量も膨大である。インプットとアウトプットの比をIO比といい、IO比が高ければ高いほど、いいものが書ける。百対一くらいでないとちゃんとしたものは書けない。千対一くらいで相当いいものができると言う。「週刊文春」で月一回の読書欄を持っていて、締め切り二日前に本屋に行って、20冊くらいの本を買ってくる。それを読み詰めて原稿にすると話している。脳は未使用な部分が多くあり、これを開発すると能力が大幅に開けると聞く。しかし、立花氏ほどの読書は誰にもできないだろう。サイエンスに関する諸々の紹介と事柄の分析には敬服する。

谷川俊太郎氏はインプットする情報量は多くなくてもよいと言われ、「詩というのはそういうものよりももっと意識の下のほうにあって、言葉にならないものがインプットで、それを言葉にするのが詩である」と語っている。谷川氏の「読む 森へ」という詩を紹介したい。「読む人の眼は/うごめく文字の森に分け入って行く/読む人の耳は/ページに降るひそやかな雨音を聞く/読む人の口は/なかば開かれ言葉を失い/読む人の指は/気づかずに主人公の腕をつかんでいる/読む人の足は/帰ろうとして物語の迷路に迷い/読む人の心は/いつしか見えない地平を越える」。全身で読んでいる。

私は読書力が落ちてきた。聴くことには集中するように、心がけているが、改めて体全体で読み、聴くことの大切さを示された。