牧師室より

平和聖日の説教と講演に来てくださった宗像基牧師は個人誌「バベル」を出しておられる。歯に衣着せぬ主張は幅広い読者を持ち、私も多くを教えられている。送られてくる毎号を印刷しているので、読んでいる方もおられるでしょう。

199号に「背中から入ってゆこう」という興味深い文章があったので紹介したい。「『後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ走り』(フィリピの信徒への手紙313) このパウロの言う『後ろ』とは未来であり、『前』とは過去のことらしい。『昔のギリシャ人はそう考えたらしい。人間は後ろ向きに、背中から未来に向かって入ってゆく。未来が顔の前にあると思うのは、私たちの錯覚かもしれない。背中の方が強い、乗り物でも後ろ向きに乗る方が安全である。ギリシャ人の考えは示唆に富んでいる。過去と現在をしっかり見据えながら、静かに、背中から入ってゆかねばならないのではないか。未来には何が待っているかわからない。ことによると、未来はこの鍛えた背中、背筋でがっちり受け止めねばならないほど、手強いものであるかもしれないのだ。』(天声人語941130)」

 私は「前のものに向かって」とは未来に顔を向けて歩むものと思っていた。しかし、ギリシャ人は逆に考えていたようだ。宗像牧師がこの言葉を引用した目的ははっきりしている。過去を見ない者は厳しい未来に背中から入っていけないということである。

 宗像牧師も触れておられるが、上記の主張はドイツのヴァイツゼッカー元大統領の演説を思い出させる。大統領は、敗戦40周年に連邦議会で「荒れ野の40年」という有名な講演をした。「荒れ野の40年」とは言うまでもなく、モーセに率いられたイスラエルの民が放浪した40年の苦難を指している。大統領はナチズムによるヨーロッパの侵略戦争とユダヤ人をはじめ、幾多の人権侵害を率直に列挙し、下記のように語っている。「過去を克服することではありません。さようなことができるわけがありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目(ママ)となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」。

 最近の日本の政治状況は過去から学ばず、むしろ歪曲し、新たな悲劇を追い求めているように思える。過去を見据え、背中から未来に向かうという姿勢は今、本当に必要なことではないか。