牧師室より

在日の作家・高史明氏が少年たちに読ませたいと「生きることの意味 ―ある少年のおいたち」という自伝を書いている時、12歳の息子さんがマンションから飛んで自死した。高氏は深く悲しみ、仏教に傾倒していかれた。当時、12歳の子どもが自殺したことに、大きな関心が寄せられた。しかし、最近のいじめによる自殺はもっと低年齢化している。

朝日歌壇で、永田和宏氏は下記の歌を第一首に選んでいる。「何もかも悲しかったと十歳がたった十歳が死を選びたり(三島市)渕野里子」。永田氏は「渕野さん、いじめによる幼い自死を悲しむ歌。嘆いたり糾弾するのではない。たった十歳が死を選んだことを心底悲しんでいるのである。リフレインの単純さが強く読者を打つ」と評している。十歳の子どもの心の中を知ることはできないが、生きる喜びや明日への希望を見出すことなく、悲しみながら死へと走ってしまった。

また、佐々木幸綱氏は「教室に四十発の不発弾火を点(つ)けぬよう言葉を選ぶ(豊川市)河合正秀」を第二首に選び、「いじめの問題のニュースが連日のように報道され、学校批判・教師批判がくりかえされる中の教室の空気をうたう」と評している。先生方ははれ物にさわるように気配りしながら、不発弾と向き合っている。

いじめがいけないことは誰でも分かっているが、いじめはいつの時代もあった。死に至らせるまでのいじめがどうして起るのか、いじめから逃れるために、どうして助けを求めないのか。そこには、人と人との関わり方を学び、体験することができない状況が子どもたちの間にあるということであろう。

私は二つのことを思う。一つは死がどんなことであるかを知らないことである。大家族の時代は、年寄りが衰え死んでいく様を、家族は悲しみの中で経験した。今は、死は映像の中でしか見られない。不帰の厳粛な事実の認識がないのではないか。二つ目は、子どもはおとな社会の鏡であることである。子どもは大人をよく見ている。大人の弱い者いじめや正義を求める者を排除するのを真似ているのを知るべきである。