牧師室より

作家の辺見庸氏は脳出血と癌に侵された不自由な闘病生活で、自死への願望は月の満ち欠けのように襲ってきたと書いていた。病状は少し回復し、文筆・講演活動ができる状態までになった。「いまここに在ることの恥」という講演を出版している。論旨は次の言葉に要約されていると思う。「憲法の問題にしても、表現のどこかには多少、躰をかけざるをえないと覚悟しています。躰の右側がうまく動いてくれませんが、私はデモにも行く気でいます。まちがいなく憲法は改悪されることでしょう。でも、私はどこまでも反対します。この国の全員が改憲賛成でも私は絶対に反対です。世の中のため、ではありません。よくいわれる平和のためでもありません。他者のためではありえません。『のちの時代のひとびと』のためでも、よくよく考えれば、ありません。つきるところ、自分自身のためなのです。この国に生きる自分自身の、根底の恥のためです。いまここに在る恥のためです。」辺見氏は、恥なき国の恥なき時代の中で恥を負う「人間」になろうと渾身の戦いをしている。

辺見氏が苦痛から逃れたいための自死願望から、変えられていった事情を語っている。ベッドの上で、作家の江藤淳氏の遺書(メモ)を何度も想いだした。江藤氏は「心身の不自由が進み、病苦が耐え難し。去る610日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。諸君よ、これを諒とせられよ」と書き残した。「さすが名文だ」「死に際がすっきりしている」と言う人々がいた。辺見氏は半身不随の身体不如意になって、この問題を身近に感じた。江藤氏のメモと死について肯定、否定を論じ、死者を貶めるようなことはいけないと思うが、下記のことは言わなければならないと語っている。「江藤さんが書きのこしたこの言葉には、日本という国固有の精神の古層、サムライの精神のごときもの、もっと拡大し、敷していえば、ファシズムの美学のようなものがあると私は思うのです。無様や恥をこの美学は嫌います。しかし私は、この場合の無様は豪も無様ではないと思います。恥とはむしろ、脳梗塞で身体が不如意になった自己身体を恥としてとらえる人間観の、狭さと尊大さにあるような気がします。」江藤氏のメモを凝視して「ちがうよ、江藤先生」「やーめた」と思えてきた。「おまえは、みっともなく無様でもいいから、生きろ。いや、おまえはみっともなく無様であるがゆえに、死ぬな」と自分に言い聞かせているという。