牧師室より

バルナバとパウロは第一回伝道旅行で、ピシディア州のアンティオキアまで来ます。安息日に会堂に行くと、奨励を求められます。パウロはイスラエルの歴史を綿々と述べ、自分が生粋のユダヤ人であることをまず語ります。そして、ダビデの子孫から、救い主としてイエスが遣わされ、そのイエスは神の愛と真実を現されたが、エルサレム神殿の指導者によって十字架刑に処せられた。しかし、神はイエスを復活させ、私たちも復活の主イエスに出会った。ダビデは朽ち果てたが、復活した主イエスは朽ち果てることがない。この方による罪の赦しが告げ知らされている。そして、パウロの説教の核心は「あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」という言葉です。

パウロの説教を聞いて、異邦人たちは感激して受け入れた。諸々の厳しい律法からの解放を喜んだからです。しかし、ユダヤ人たちは猛烈に反発した。ユダヤ教徒はモーセの律法を厳格に守り、言わば苦行を積むことによって、宗教的アイデンティティーを保ち、神に近づき救われると信じていたのです。パウロは、律法遵守という人間の努力によって救われるのではではなく、「信じる者は義とされる」と無償の恵みによって救われると語ったのです。彼らはそれでは、自分たちが築いてきた宗教性が崩壊すると恐れ、迫害を加えたのです。パウロの語る福音は人間の業に関わりなく、神から一方的にいただいた恩寵の出来事でした。

「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」という言葉は上記のような意味と力を持っていました。ところが、この言葉を教会は「信じる者は救われる。逆に信じない者は救われない」と「信仰」を救いに与るための条件、あるいは功績と見なしてきた面があります。この考えは、信じた者を清く、正しい者とし、信じない者を汚れた悪人とする。その行き着く先は、信じない者は悪魔の子で地獄に落ち、彼らを殺しても一向に構わないというキリスト教原理主義にまで至ります。信仰の有無によって二分し、信仰を持つ自らを優位に立てて奢る者になります。

しかし神の真実は、主イエスの十字架によって罪の赦しという是認を宣言し、主イエスの復活によって神の命を付与してくださっています。私たちの信仰は主イエスの十字架と復活によって「既に」救いが与えられていることに対し「アーメン」と言って受け入れることです。教会は「あなたは罪人・悪人です。悔い改めて十字架を信じ、清い人になりなさい」と宣教するのではない。「あなたも既に神の愛の中に包まれています。これを信じて一緒に生きましょう」と語りかけることです。信仰を受け入れてもらえなくても、「あなたと私は共に神に義とされている同じ人間・隣人です」と語り続ける。神の絶対的な無償の赦し・是認を信じて、生かされることが信仰です。ですから、神の是認に反する人間否定に対し「否」を言うのです。