牧師室より

小井沼國光牧師が61年の、今では早過ぎる生涯を終えられた。1983年に、当時の「洋光台・港南台伝道所」に転会してこられてから、20年を越える交わりを得た。率直に語り合える大切な友人を失って本当に寂しく悲しい。

國光師は慶応大学を卒業し、服部セイコーに勤務し、25年間、会社員として働いた。ブラジルに駐在員として行かれ、そこでの色々な出会いと経験から牧師への献身を決意された。帰国後、日本聖書神学校に入学し、牧師への道を歩み始めた。真樹子師も独学で牧師になり、1996年にご夫妻は宣教師として、ブラジル駐在時に在籍していたサンパウロ福音教会に赴任された。定年退職後、牧師になる人は相当いるが、40代後半の献身者は少ない。「会社員で終わりたくない」と言っていたが、強い「内的な促し」があったのであろう。

以来10年間、サンパウロ福音教会で奉仕された。教会員として在籍するのと、牧師として奉仕するのでは全く違うものとなる。國光師も様々な苦悩があった。私は「孤独」の苦悩が最も深かったのではないかと思う。神学的実存を語り合うことによって、自らを確認し、また相対化する機会の少なかったことは辛いことであったであろう。しかし、黙々と教会に仕え、様々な情報を発信してこられた。

一昨年の12月、筋萎縮性側索硬化症という難病に侵されていることが判明し、最期は、肺機能が低下し、呼吸困難になる病気であるとの告知を受けた。今年の3月に、心を残しながら帰国された。國光師はご自分の死を受け入れ、延命のための治療を拒まれた。ご家族も深い悲しみの中で同意された。しかし、國光師はいつも端正で綺麗な顔をして、実に平安に過ごされた。真樹子師の心を尽くした看病の中で、私たちはユーモアのある会話を交わした。病状の進行は早く、824日、眠るように召されて逝った。

國光師は、知性が優先し事柄を分析的に捉えることに優れていた。私は病床で「先生にとって、福音は何ですか」と問うた。「教義学的な、また伝統的な教会にはなじめなかった。私は、出エジプトしたイスラエル人が神の圧倒的な恩寵に信頼して生きた難民共同体、そして、主イエスに群がったガリラヤの貧しい民衆が『神にあって生きよ』と聞いて形成した「神の国」の共同体、この二つに聖書の真理が語られていると思う」と言われた。これらは、ラテンアメリカのキリスト教基礎共同体が目指している「解放の神学」の継承である。グロバリゼーションが進行している現在、貧富の格差は広がり、貧しくさせられた人々は生存権さえ失っている。この現実を見据え、主イエスによって是認された者として「共に生きる」ことを求め続けることが教会の使命である。私は國光師の遺言として聞いた。