牧師室より

パウロは福音の自由を語った。主イエスの十字架と復活は神からの義、生の絶対的是認であり、それはあるがままのあなたを神はよしとしてくださるという解放であった。

当時は徹底した宗教社会であった。人は皆自分の所属する宗教の戒律を厳格に守ることにおいて信仰深さを誇り、アイデンティティーを保っていた。その宗教は息苦しいものであったに違いない。パウロの語る福音は戒律からの解放という宗教の非宗教化であり、おおらかな互いの肯定であった。異邦人はこの福音を喜んで受け入れた。

ところが、ユダヤ教からキリスト教に改宗した人々の中にはユダヤ民族主義から抜けきれない人々がいた。主イエスの十字架と復活を信じる信仰において救われるのであるが、彼らはモーセの律法を守り割礼を受けることにおいて全き救いに与れると説いた。これが、異邦人教会を混乱させた。この混乱を糺すために、エルサレム教会で最初の使徒会議が持たれた。パウロは異邦人も福音の自由に与り、信仰を喜んでいると報告した。しかし、ユダヤ教的クリスチャンは律法と割礼を強要する戒律主義を主張した。喧喧諤諤の議論の末、ペトロは立って「あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たち(異邦人)の首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」と語り、決着がついた。

パウロにとって主イエスの十字架と復活による救いの恵みは絶対的なことであった。その絶対的な恵みに律法や割礼という人間の業を持ち込むことは恵みが相対化され、主イエスの十字架を空しくすることになる。絶対的な恵みが人間主義によって水増しされると、恵みが恵みでなくなる。パウロはユダヤ教的クリスチャンの人間の力に頼る言動は福音の真理から逸脱すると断固反対したのである。

神に義とされる絶対的是認を無償の恵みとして受け入れる時、恵みに応えて生きる新しい人間に生まれ変わっていく。