牧師室より

最近、抵抗できない子供たちが殺害される事件が続いて起こっている。今まで元気だった子供を突然、無残な遺体で迎えざるを得ない親の悲しみや怒りはどれほどのものかと思う。

世論は親の悲しみに同情し、犯人に対して厳罰を求める気持ちになることは自然で、理解できる。しかし、報道は社会的リンチ、報復を煽るような扱いが多過ぎるのではないか。犯罪に対しては、適正な償いが科せられる。その適正な償いを裁判所で、判事と検察官と弁護士の間で確定するのが司法の責任である。

弁護士が「犯罪の共犯者」のように誹謗され、弁護活動ができないという話を聞く。これでは、真相の解明ができなくなる。遺族の報復への思いが必要以上に煽られて、裁判所が「復讐」の場となったら、こんな恐ろしいことはない。

犯罪加害者は肉親の愛を知らず、社会からも受け入れられず、自分を肯定できない孤独地獄に生きていたケースが多い。自分を愛せない人は他者も愛することはできない。もちろん、それが犯罪を正当化したり、免罪されることにはならない。責任はあくまで本人にある。確かに本人の責任において、犯罪を犯すのであるが、そこには社会的な背景があるのも事実である。感情的にならず、真相を解明する理性と、それを可能にする制度が必要である。

犯罪加害者は自殺願望の裏返しの面があるではないか。「早く、死刑にしてくれ」という自暴自棄の叫びの中で、死刑になっても意味がない。反省と悔悟の思いへと導いてこそ、贖罪といえる。

自分を肯定できない悲しみが自分自身と人を傷つけていく。そして、そのような自己否定へと追い込む社会的風潮が蔓延しているのではないか。「正義の側」に組して断罪するだけでは、誰も救われない。

主イエスの十字架は、私にとっては「生きることへの絶対的是認」、「死から生への呼び出し」であった。この是認への呼び出しを、聖書を通して確認し合うところが教会である。そして、神の「共に生きよ」という愛は「あなたは必要な人だ。あなたを愛している」という私たちの具体的な言葉と行為を通して伝わっていく。見えない神は見える人を媒介として証されていく。