牧師室よ

「国旗・国歌法」が制定された時、政府首脳は「強制はしない」と言明していた。ところが現在、教育現場で「君が代斉唱」の時、「不起立する」教師たちを厳しく処分している。彼らは苦しい状況に追い込まれている。司法も行政に追従する判決を出している。私は権力の「魔性」を見る思いがする。

国会では「教育基本法」の改定問題が議論されている。改定派は、米国占領軍の押し付けであり、戦後の自由教育が責任を忘れた「放縦」を生み出していると主張している。

「愛国心」という文言を入れたいのが本心であろう。ところが、政府が出した改定案には、その文言は前文にはない。第2条 教育の目標の第5項に「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」と小さな扱いで書いている。しかし、ここから権力の「魔性」が「日の丸・君が代」問題のように、発起してくるのではないか。

政府案が出されてすぐに民主党案が出された。民主党案は前文の中に「日本を愛する心を涵養し、先祖を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することである」と書いている。政府案は「我が国と郷土を愛する」、民主党案は「日本を愛する」と両案とも「愛国心」に熱心である。

国が「愛する」などという心の内面まで立ち入るべきでない。「内心の自由」を保障することが権力の務めであるが、それが、逆転して権力が国民の心を管理、支配しようとするところに根本的な問題がある。

私は日本を愛さない国民は殆どいないと思っている。私自身「愛国者」であると自負している。問題は「愛し方」である。国が法で「我が国を愛する」と規定した場合、国の方策と合致することを「愛する」と評価し、そうでない者を排除する方向に走り出すことは明らかである。

戦争中、天皇制に疑義を唱え、戦争に反対した人々は「非国民」となじられ、投獄され、激しい拷問を受け、殺害された。歴史を振り返ってみれば、彼らこそ真の「愛国者」であったことが分かる。ドイツではヒトラーに反対して殺された人々の慰霊碑が建てられ、彼らの「愛国心」が高く評価されている。

私たちは「内心の自由」に敏感になるべきである。この自由が保障されてこそ民主と平和が育成される。