牧師室より

 3 日(水)は憲法記念日で、改憲派と護憲派はそれぞれの集会を開いた。私は、日比谷公会堂で持たれた「とめよう『戦争をする国』づくり、 生かそう9条のちから 53憲法集会」に行き、パレード(デモ)にも参加してきた。全国に広がった草の根の「9条の会」は4,700グループを越えた。その勢いであろうか、今年の日比谷公会堂には入り切れない人々が集り、熱気に満ちていた。

 改憲派は、その理由の一つに戦争の放棄と軍事力の不保持を謳った憲法は現実にそぐわないと言っている。そうであるならば、例えば24条は「両性の平等」を謳っているが、現実は男女の平等はなく、大きな差別が歴然とある。現実に即していないから、両性の平等を謳った憲法を変えるべきだという議論があるだろうか。また、25条は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあるが、この権利は実現、実行されているだろうか。現実的でないから変えよと言わなければならなくなる。

 憲法は人間の持つべき諸権利、平和的な生存権を確保されるべく、希望において定めるものであろう。

 戦争は人殺しと破壊を正当化し、互いの憎しみと悲惨を増幅するだけである。人間の罪の中で戦争ほど重く、深いものはない。

「週刊金曜日」の「無名人語録」で永六輔氏は「何もかも豊かな国で、欲しいものは無いといいますが … 欲しいものはありますよ。憲法九条… 欲しいですよ」と書いている。今日、平和を実現する政治と外交は可能ではないか。戦後は、米国が国益を求めて一方的に関わった戦争が大半である。その米国に追従して海外派兵を目論む改定は禍根を残す。日本の憲法は将来の世界にとって「希望」として多くの人々に支持、賛同され、9条を広めようと国際的な運動が展開されている。

 憲法前文には「恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する」という文言がある。貧困と抑圧が戦争を生み出す。これを除去するように、私たち国民が力を出し合う責任がある。憲法は遠い他人事ではなく、私の問題、そして私の生き方の問題である。