牧師室よ

私は、辺見庸氏の人間そのものに肉薄する視点と姿勢に多くを教えられてきた。辺見氏は現在、脳出血と癌で不自由な病床にある。その辺見氏が「週刊金曜日」に書いている一部を紹介したい。

自殺への衝動は毎日、月の満ち欠けのように襲ってくる。その辺見氏のところに、キリスト者である友人が来て、慈しみに満ちた眼差しで「生きることはあたえられたものではなく、かせられたものではないでしょうか。義務のようなものではないでしょうか。私が考えついたことではありませんが(VE・フランクルの言葉)、かせられているということが大事な気がします」と語りかけた。「課せられている」と言ったつもりだろうが、「生きることを、罰として科せられている」と聞き、また「生を科する者はいかなる資格でそうするのか」と問い、その問いを飲み込んだ。

その友人の三女が理由不明で、自宅の柿の木で首を吊って自殺した。父である友人は辺見氏に、他人事のように「必死でわかろうとして、どうしてもわかりえないことというものがあるものですね」と語った。端正な姿勢を崩さない彼に、「わかろうとしてわかりえない、などときいたふうなことをいわないでほしい。彼女の死を、あなたはそのように静かに得心してしまうのか。なぜ狂わないのだ。これは親として泣き狂うほかない死ではないか。あるいは生涯黙すほかない死ではないか」と吼えた。瞑目して聞き入っていた彼は「私が狂っていないなどとどうしてあなたにわかるのですか。どうして狂ってない、悲しんでないと」と応じた。そしてしばらくして、いつもとは違う、下卑た口調で「日常のな、日常の皮を一枚ベロリと剥けば、大抵の人間のはだな、ち、ち、血まみれなんだよ」と叫んだという。

辺見氏は「彼は別人のようにいい乱れる前から精神は決壊していた。それを傷ましいこととすぐに感じえなかった自分を私は恥ずかしいと思う。他者の苦しみ、悲しみについては、これに類する不注意と無感動、想像の放棄がほかにもたくさんあっただろう。そのことをいまなぜか恥じている」と書いている。分からないことを知ることから理解が始まると心得よう。