牧師室よ

毎年、神奈川教区の教職研修会が持たれている。今年は「自衛官合祀拒否訴訟」の主任弁護人を務めた今村嗣夫弁護士が「個は全体に優先する キリスト者として、憲法問題にどう立ち向かうか」という講演をされた。内容の濃い講演であったが、「国家は個人のためにある」という講演であった。木田献一先生は「神の前には一匹の迷える羊は九九匹の迷わない羊にまさる価値を持っている。無限の創造者である神の前には量と数は問題ではない。そこでは『個は全体に優先する』。神の国の支配のあり方はこの世の支配のあり方と正反対なのだ。」と書いておられる。この言葉を引用し、弱者、少数者の人権尊重を力説された。戦争放棄を謳った9条も平和的生存権という人権規定であり、平和が保たれてこそ人権が保障されると語られた。また、樋口陽一氏は「国家が諸個人の自由にとって脅威とならないようにするために国家をしばる手だてが、憲法にほかならない」と憲法の意味を説いている。ところが、自民党が出した「新憲法草案」は国家と国民が並列的に扱われ、国家による国民統制を強めていると批判された。

私は講演を聞いていて、あることを思い出した。イラクで拘束された三人は「自己責任論」を浴びせられ、犯罪人のような姿で帰国させられた。同じように、フランス人女性が拘束され、無事帰国した時、彼女は「私を助けるためにフランス政府はある」と言い切った。この違いはどこから出て来たのか考える必要があると思った。

人権は「信教の自由・政教分離」に核を持っているので、私は20条に関心を寄せている。1項、2項は変わらないが、3項は、現憲法では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある。自民党新憲法草案の3項は「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行なってはならない」と変えている。今村氏も指摘されていたが、これは「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えない」ならば、また「宗教的意義を有」さないならば、国も公共団体も参加してもよいということである。公務員の地鎮祭への参加、何より、首相の靖国参拝への道を開く法案であることは明瞭である。

麻生外務大臣は「靖国、天皇陛下の参拝が一番」と発言した。この発言を批判する世論の低調さに恐怖を感じる。かつて「宗教に非ず」と言って神社参拝を強要して、人権を奪った時代に逆戻りしている。