牧師室よ

大江健三郎氏が新聞で、古関彰一氏の著書「『平和国家』日本の再検討」を強く推奨していた。難儀して読んだが、多角的で公正な論述の誠実さに感銘を受けた。

平和憲法が作られていった事情と、日米安全保障条約が締結された状況を書き、その平和憲法と安保条約、そして世界の動きの中から様々な「平和問題」が論じられてきたことを克明に述べている。

私が受け取った二つのことを紹介したい。第一は、古関氏の次の言葉である。「『平和国家』の半世紀を再検討し、なによりもまず、痛感させられることは、戦争責任に対して、ほとんど無自覚なままに平和憲法を受け入れ、安保条約を自国の問題としてのみ考えてきた点である。」このことが、憲法の平和主義を一方では「理想」とし、他方では「押し付け」と見ることにつながっていった。また、背後にある歴史性、政治性を疎かにする知的環境を作り出してしまった。憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。ならば、戦争被害国民に対し、戦争責任を明確にする責任がある。戦争に巻き込んでおいて「戦争に巻き込まれたくない」と自国の平和だけを主張することは「公正と信義」に反する。そして私は、古関氏の「憲法が平和主義に立脚していることは、国の主権を制限していると解することができる」という言葉が大切であると思う。法は権力制限を大きな務めとしている。

第二は、平和の反対概念である。普通、平和の反対は戦争と考えられる。しかし、憲法の前文は「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とある。恐怖と欠乏がある間は「平和」ではないとし、それらが戦争を招来すると認識している。これは、歴史的に事実である。憲法は戦争の予防として恐怖と欠乏の除去をあげて、平和を維持しようと決意している。平和憲法の擁護は、国による軍事力の行使に反対するだけでなく、国民が恐怖と欠乏の除去のために、その役割を果たす責任があるということである。受身の「非戦思想」に立つのではなく、平和に参画する権利を保障している。古関氏は「個人にとっての平和憲法は、まさにここにある」と力説している。

軍事力で安全を確保できる時代ではなくなっている。「人間の安全保障」という「相互の人権」を守る平和を主張する時代であるというのが古関氏の結論であろう。