牧師室より

クリスマスおめでとうございます。クリスマスを迎える度に、高校三年生の時、一途な思いで受洗したことを思い出す。私は深い虚無的な思いに捕われていたが、聖書によって生きる希望を与えられた。それは、全能の神の支配の中で、どんなに小さくとも「私は私であってよい」という確信を得たこと、そして、その神は主イエスに現された無限の愛の神であることを知らされたことであった。この神とイエス・キリストを信じれば、生きることができると大きな喜びと希望をもって洗礼を受けた。

私は受洗前から、この喜びと希望を牧師になって証ししたいと願っていた。神学校の受験資格は洗礼を受けて1年以上、教会生活をした者となっていた。クリスマスに受洗すれば、一年の浪人で受験資格を得ることができると思った。クリスマス礼拝の前日まで考え続けていたが、見慣れている夕暮れの山々がいつもとは全く違って美しく見えた。その時、「明日のクリスマス礼拝で洗礼を受けよう」と決心した。牧師に「先生、明日、私は洗礼を受けたい」と電話で申し出た。すると牧師は、洗礼式は教会の業なので、明日のクリスマス礼拝後、役員会で私を紹介し承認を得て、その次の礼拝で洗礼式をしましょうとの返事であった。

教会に行き始めて3ヶ月くらいであったが、聖書を貪り読んで、どの本よりも心に深く響いていた。その私は、信仰は「神と私」の関係であると思っていた。ところが、牧師から洗礼式は「教会の業」と言われ、役員会で承認を受け、気がついた。神と私だけの関係は弱く、自己本意に流され易い。教会という交わりの中で、信仰が正され、支えられていくのだと知らされた。

クリスマス礼拝の次週、年末の礼拝で洗礼式をしていただいた。その時の緊張し切ったクリクリ坊主の写真が残っている。ワンテンポ遅れた洗礼式であったためか、何かにつけテンポが外れるのが習い性になったように思う。しかし、私にとっては、教会の意味を知らされ、神とイエス・キリストに望みをかけた人生の新しい出発であった。