牧師室より

イザヤ書40章は第二イザヤ(以下−イザヤ)と言われる預言者の言葉である。イザヤはイスラエルの民が半世紀にわたるバビロン捕囚から解かれ、故国エルサレムへの帰還がなった時代に預言活動をした。喜びに満ちた言葉が続く。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。」バビロンからエルサレムに向かう道は荒れ野であるが、「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。/険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。」と広く平らな道であると歌う。

そして「肉なる者は皆、草に等しい。/永らえても、すべては野の花のようなもの。/草は枯れ、花はしぼむ。/主の風が吹きつけたのだ。/この民は草に等しい。」と人間と歴史の移ろいのはかなさを歌う。アッシリア、バビロン、そしてペルシャと世界の覇者は入れ替わり、イスラエルの民は彼らに翻弄された。しかし今、エルサレムに帰還する同胞を見て、神の栄光の現れを実感する。その時、イザヤは「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と歌う。

「とこしえに立つ神の言葉」とは何か。神はイスラエルを愛し、どんなことがあっても人間を愛してやまない「神の愛」そのものであると私は信じている。イザヤは、かつて先祖が経験した「出エジプト」の奴隷からの解放と今味わっている「バビロン捕囚」からの解放を重ね合わせ、神の確かな愛を見た。この愛を「とこしえに立つ神の言葉」と高らかに賛美して歌った。

新約聖書は神の愛は主イエスにおいて完全に啓示されたと告げ、それを福音と言っている。パウロは「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と神の言葉は主イエスの十字架であり、ここに救いがあると語る。次週、この十字架の主イエスを迎える。