牧師室よ

横浜港南台教会々員12名と他教会々員5名で、10日間の「パウロに学ぶ トルコ、ギリシャの旅」をしてきた。参加者たちは、それぞれ分担して感想文を書き、旅行報告冊子を出したいと計画している。

パウロが第2伝道旅行と第3伝道旅行で訪ねたエーゲ海沿岸の町々をバスと飛行機を乗り継いで巡る旅であった。パウロが歩いた全旅程の7分の1くらいだろうか。彼は大変な距離を歩き、また船に乗り、全く知らない町々を訪ねて、キリストの福音を語り続けた。パウロの伝道への燃える熱意を実感した。彼自身が語っているように、どれほどの忍耐と苦労と困難があっただろうか。

パウロはエフェソに3年、コリントに1年半滞在し、他の町々はおそらく数週間か数ヶ月滞在しただけであろう。それなのにあれだけのクリスチャンを生み出し、教会を建てた。当時の人々は徹底した宗教社会に生き、信仰に関しては敏感で「命」を賭けていた。パウロの語るキリストの福音は、人々にとって衝撃的な意味と力があったことは確かなことである。私は、その衝撃は社会的にどんな事柄であったかを問い続けてきた。多くの人はキリストの愛に倣う共同体・教会に人々を惹きつける魅力があったと捉えている。なか伝道所の渡辺英俊牧師は、貧しく抑圧されていた人々の交わりで、互いの生と死を分かち合う愛の中に、主イエスと出会う喜びを見出したと言われる。これらの主張は良く理解することができよう。

私は今回の旅行で下記のようなことを考えさせられた。当時の人々はそれぞれの宗教に深く関わり、それに自己のアイデンティティーを見出していたが、その宗教は厳しい戒律と重い義務を負わせ、がんじがらめに縛るものであった。パウロの語ったキリストの福音は拘束されていた宗教から、ただの人間でよいという自由へと解放した。宗教の非宗教化、「宗教から福音へ」が人々の心を捉えたのではなかったか。

今日の私たちは権力やジャーナリズムが提示する価値観や世間の常識の中に埋没し、事柄が見えなくなっている。その状況から、キリストの福音は自分自身を取り戻し、愛し合う隣人を見出し、平和に生きる人間回復を約束している。パウロの人々を非宗教化したキリストの福音は、私たちにおいては時代に縛られない、解放された「新しい私」になることと結び合っているのではないかと思わされた。