牧師室より

今年の特別伝道集会は富岡幸一郎先生をお招きした。講演会は「聖書をひらく」と題して話された。聖書は永遠のベストセラーとして読まれているが、宗教や道徳・倫理や哲学の書ではないとういことから話し始められた。聖書は読む者の存在を写し出す鏡であり、対話を通じて変革をもたらす書物である。創世記は「初めに、神は天地を創造された」と書き出し、神が「光あれ」と言われると「光があった」と言葉による創造を伝えている。マルチン・ルターが「聖書は言葉の森である」と語ったように、命と力に満ちた言葉を連ねている。そこには、見えない、語りえないものを指し示し、五感を越えたメッセージが込められている。そのメッセージを聞き取り、味わっていく読み方を勧められた。そして具体的に、詩編の素晴らしさ、ダビデ王の影(罪)と光(赦し)、預言者エゼキエルが見た「枯れた骨の復活」などから、聖書の言葉の豊かさを説き明かされた。聖書からだけでなく、先生のご専門である文学からも多様に、聖書は人間を変革する神の恵みを伝えていると話された。

説教は「創世記のひかり」と題して話された。創造の初め「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とある。地の混沌の上を、雌鳥が卵を抱きかかえるように、霊が覆っていると神の愛の確かさを伝えている。神はカオス(混沌)にコスモス(秩序)を与えて創造していく。そして、創造した天と地の全てを「良しとされた」と大いなる肯定を宣言された。最後に、人間を神のかたち(神と向き合うかたち)に創造し、これに自然を支配する権能を与えた。この権能を傲慢な人間中心主義に誤解し、自然破壊を招いていると言われている。

7日目に、神は創造の業を完成し、区切りをつけて安息された。この安息に大きな意味がある。それは、神の安息に招かれることによって、人間に自由と主体性を与え、かつ人間に与えた自由には限界があることを示すためであった。その自由を無限に拡大し、神のようになろうとしたところに罪がある。「足るを知る」という諺のように、限界を謙虚に認める中に真の美しさ、秩序が生まれる。新約聖書は先在のキリストによる創造と支えを告げている。旧約と新約のつながりから、創造における神の壮大な祝福と愛を示され、本当に嬉しく聞いた。その創造の光から文明批判と克服の道が開かれると私たちの責任についても諭された。