牧師室より

「福音と世界」7月号は「現代における『宗教』の課題」というテーマを特集している。その中で、ジャーナリストの大森真実氏が興味深い投稿をしている。要旨を紹介したい。

宗教も一つのサービスである。宗教は提供するサービス(救済財)にクライアントは帰依という対価(信心、献金、労働奉仕など)を支払う。サービスの内容に人気がなくなれば、クライアントの帰依を失ってしまう。更に、救済財の需要がなくなれば、宗教の店じまいは必定となる。

宗教が提示すべきサービスに関して、現在の世界には人類的な規模の危機が三つある。一つは生態学的な破局の危機(外的環境)、二つが暴力の拡散と昂進の危機(社会的環境)、三つ目は生の意味喪失の危機(内的環境)である。これらの危機に対し、宗教がまったく無力であるとするならば、誰も帰依しようとは思わない。いわんや、宗教がこれらの危機を助長するなら、反宗教闘争が必要だと言わざるを得ない。

宗教に望むことは単純で「貪るな」という戒めを人類に教えてほしい。殺すなという戒めは他者の命を貪ることである。あらゆる意味で、貪りを退け、隣人との関係を正しく整え、平和に生きることを最高の価値として位置づけてほしい。「何ごとかを断念し、いや断念するだけでなく、放棄し、それを隣人に贈与すること、いや隣人だけでなく、異邦人をも歓待すること ― それは悦ばしい生活なのだと、宗教が説得的に提示できるならば、人類にとって非常に価値あるサービスになるでしょう。」

美しい言葉や整然とした論理は宗教の正しさを証明するものではなく、ただの自己言及でしかない。教えと戒めを身をもって生きる経験によって証明されるしかない。態度による証明という「身証」こそが宗教の真理性を現す。そして、最後にこう締めくくっている。「『貪りから解放された生き方をしてみたい』という深い願いを引き出させ、その願いを人々の間に伝染されていく。人類は今、そうした宗教を必要としていると思います。」

 歴史の中で宗教の需要がなくなったことはないだろう。人間は常に飢えてきた。その飢えに対し、どのように供給をしてきたか。大森氏の「貪りからの解放」という視点は、現在の危機からの救いという意味で的を射ているのではないか。

主イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と語られた。主イエスに従う者の生き方を諭した言葉である。