牧師室よ

教会創立25周年記念礼拝説教と「教会について」の講演に紅葉坂教会の北村慈郎牧師が来てくださった。説教では「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」というみ言葉から説き明かされた。「疲れた者、重荷を負う者」は生きることに行き詰まった者と理解して間違いないだろうが、マタイ福音書の文脈から見ると「律法を負わせられて苦しむ者」と受けとめられる。神を信じ、隣人を愛する律法を守りえない罪に苦しみ、喘ぐ者に対し、主イエスはわたしのもとに来なさいと招いておられる。それは、律法を十字架において成就、完成してくださった主イエスのもとに行き、主イエスと共に軛を負う時、真の安らぎが得られるという喜びへの招きである。私たちの信仰は、主イエスにおいては重荷が安らぎに変えられていくことを具体的に体験することであると話された。

午後の講演では「教会について」基本的なことを話してくださった。キリスト教の第一命題は主イエスの福音である。教会は第二命題として、福音に出会い、受けとめ生きる人間集団のあり方の問題であると始められた。主イエスの福音は「この世の価値観、差別から私たちをたえず自由にし、真実の交わりを作り出していく」と定義された。その福音に与る者は癒され、救われた者として、他者の隣人になっていく。福音は差別されている者を解放し、また差別する者をも解放し、自立した人間へと変えて、共生を生み出していくからである。聖書と現実から問いと学びを共有しながら、新しい発見と出会い、そして互いの受容と変容を繰り返しながら、真実の交わりを形成する。そして、その真実な交わりは最も弱い立場に置かれた隣人の解放に自らが参与することであると語られた。

教会は教理によって形造られるものではなく、福音との生きた出会いとその共有を生み出し、また終末的希望が主イエスの愛に倣い「共生する」群れとして建たせられる。

講演後、夕食まで話し込んだ。神学校を同世代で経験したが、交わりは殆どなかった。同労者の働き、また教団、教区の問題について話し合った。そして、共感するところが多かった。キリスト教は「なぜ、どうして」と問いかけるところに生き生きとした信仰が生まれる。主イエスの生と死は私たちへの絶えざる問いかけである。