牧師室よ

私が神学校を卒業した時、28名がそれぞれの教会に遣わされた。その同級生の中で、内田光一牧師が最も早く、35歳で召された。心臓発作を起こし、休職していた。療養している彼を見舞いに高知県まで行った。あいにく、奥様も病を負い、慰めの言葉が見つからないほど苦しんでいた。不安を抱えながら復職したが、再度の発作で帰らぬ人となった。

その内田牧師が召されて27年目に、残されていたテープから「艱難を喜ぶ」という説教集が教会員によって出された。彼の信仰が直に伝わり、深い感銘を受けた。彼は「主の前に白旗を掲げよ」が口癖であった。

説教の中の一節を紹介したい。「キリストが生きて今も私たちを支配しておられるということが、ともすれば、見えなくなってしまう時が必ずある。そういう時に私たちは限りなく強くなるわけでありまして、自分の持っている性格だとか、生まれながらの色々な能力とか、あるいは財産とか、色々目に見えるものを武器にして、私たちは限りなく強くなり、ある時には仕事をテキパキと片付け、ある時には人を裁き、そして自分の道を自分の能力で切り開いていける、そういう錯覚におちいる時がある。

しかし、その事が実はパウロに言わせれば、あなたがたの本当の罪であり、それが真のあなたがたの弱さである。イエス・キリストは、あなたのそのような強さだと思っているその弱さによって十字架につけられたのではないか。あなたが自分は強いと思っているそういう強さ、それはとりもなおさず弱さなんだけれども、その弱さ故にキリストは十字架につけられて、あなたがたのその強さの為に十字架の上で、無様な死に方をしてくださったのではないか。そしてイエス・キリストはその弱さの故に十字架につけられ、その弱さに死にきることによって、初めて神の力によって生かされる、そういう復活の初穂と私たちのためになってくださったのではないか、そういう信仰がまず何より先にパウロの中にあったということを、私たちは忘れてはなりません。」

彼は文字通りの弱さの中で吟していた。しかし、その弱さをキリストに明け渡したところに、神の力、復活の命があることを信じぬいた。そこから自分の能力を誇る罪、愚かさを見据えた。「主の前に白旗を掲げた」短い生涯であったが、主イエスの恩寵に全幅の信頼を寄せて生き、そして逝った彼の信仰に敬服した。