牧師室より

西南学院大学神学部の青野太潮教授の説教・講演集「十字架につけられ給ひしままなるキリスト」を慰め深く読んだ。青野先生は15年ほど前「十字架の神学の成立」という重厚な本を出され、私も多くを教えられた。今回の説教集は諸教会でされた九つの説教がまとめられている。

青野先生は本当に優しく謙遜な方であるという印象を強く受けた。優しいということは愛情深いということであるが、別な言葉で言えば、人との関わりを大切にされるということである。それは、生きることの苦しさと悲しさをよく知っておられるからだと思う。イエス・キリストはゲッセマネで恐れと悲しみに震えながら「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っている。また、十字架の上でも「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と苦しみの中から絶叫している。この弱いイエス・キリストが私たちの救いであると断言する。私の弱さを知り、共に嘆き悲しむイエス・キリストが、十字架につけられ給ひしまま(現在完了形)なるキリストがいてくださるから、生きる勇気と力と命を復活の喜びとして与えてくださると言われる。この逆説こそが信仰の内実である。

また、青野先生は謙遜である。学生たちに自分の講義を鵜呑みにせず、批判的に聞くように求めている。最高の神学を修めた人であるが、ご自分を徹底的に相対化しておられる。それは、ご自分の弱さと罪深さをよく知っておられるからだと思う。自分の弱さと罪深さを知る時、私の力だけでは生きられず、神の大きな愛の中でしか生きられないことを悟る。説教において、人は無条件に神から愛されていると繰り返しておられる。この無条件に愛されていることを知ることが信仰である。

説教の一節を紹介したい。「人が生きるのは、何か良いことをするためとか、他人に仕えるためとかなどではないのです。そうではなくて、まず、神の愛が私たちすべてに、溢れるほど注がれているからなのです。何か良いことをすることも、他人に仕えていくことも大切ですが、しかしそういうことが、まず第一にきているのではないのです。まず私たち一人ひとりを、かけがえのない存在として神が愛してくださっているという事実が、すべてに先行しているのです。そして、だからこそ私たちは、共に生きるという共同体を大事にしているのです」。