牧師室より

「新教出版社」の創立60周年記念講演会が行なわれた。講師は宮田光雄先生であったが、先生の体調が優れず、月刊誌「福音と世界」の小林望編集長が代読したという。素晴らしい講演で活字化が要望され、上誌を通して、私も読むことができた。

「私の聖書物語−信仰の座標軸を求めて」という講演であった。先生は以前、「主体的決断」を力説していたが、最近は神の恵みに対する「根源的信頼」を語ることが多くなったと語っておられる。また、いつも「ユーモア」について語られる。ユーモアは現実の問題を茶化したり、歴史に対する責任を回避したりすることではなく、神の恵みによる「大いなる肯定」に基づく楽観である。カール・バルトは「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」と言い、ボンへッファーは「究極の事柄と究極以前の事柄」と言っている。「原理主義者」のようにヒステリックに自己絶対化しない。どんな暗さの中でも「力強く、落ち着いて、ユーモアを持って」現実をあるがままに見る勇気と力を持ち、未来に対する希望に生き続ける。聖書から解放と喜びのメッセージを読み続けようと語っておられる。

結論の部分をそのまま転載したい。「信仰者の座標軸はどこにあるのか。もはや明らかでしょう。ルターの有名な「キリスト者の自由」の二大命題を用いるなら、キリスト者は「万人にたいする自由な主人であって(神以外には)何ものにも従属しない」。同時に、キリスト者は「万人に奉仕する下僕であって、すべてのものに従属する」。これは、まさに超越者にもとづく現世からの自由現世への自由》以外ではありません。すなわち、縦軸の方向では時代の流れを上から断ち切って見ることのできる神との関係、《信仰》の次元を問われています。横軸の方向は、むろん、社会的な関係に目を開くものですが、先の《信仰》の次元と組み合わされる時、自己のエゴへの捕らわれから脱却して他者の発見、すなわち、《愛》の次元に通じるものでしょう。しかし、さらにいま一つ。これに時間軸の方向を加えれば、それは、終末論的希望の次元以外ではありえないでしょう」。

神に向かう縦軸と隣人と結び合う横軸、それに加えて時間軸の終末論的希望が嬉しい。