牧師室より

旧約を読む会は「申命記」を読み終えた。モーセは奴隷からの解放という出エジプトの偉業を40年に渡る苦難の末、達成した。しかし、彼自身は神が約束した乳と蜜の流れる「カナン」に入れなかった。モーセは「目はかすまず、活力もうせていなかった」と記されている。ピスガの山頂から、豊かな「カナン」を望みながらも、断念しなければならなかった無念さに深く同情する。「カナン」侵入を許されなかった理由を聖書から二つ考えられる。一つは「民数記」20章で、出エジプトした民が水に渇いた時、神は岩に向かって「水を出せと命じなさい」と言われた。ところが、モーセは杖で岩を二度打った。命令の言葉ではなく、岩を打つ行為をしたことを「わたしの聖なることを示さなかった」と非難されている。これはモーセの罪によって許されなかったと読める。申命記3章では、モーセは「ヨルダン川の向こうの良い土地、美しい山、またレバノン山を見せてください」と「カナン」に入ることをひたすら祈っている。そのモーセの祈りに対し「あなたたちのゆえにわたしに向かって憤り、祈りを聞こうとされなかった」しかも「この事を二度と口にしてはならない」と厳禁されている。ここでは、イスラエルの民の罪のゆえに許されなかったと伝えている。

モーセ自身の「神の聖を示さなかった罪」と「イスラエルの民の罪」の二つの理由が考えられる。前者の場合では、モーセも罪あるただの人、後者の場合では、人の罪を負ったイエス・キリストの先取りと受け取れる。二つの罪が交じり合ったものとも考えられる。

私は、言葉としての証言はないが、下記のように考えている。もし、モーセが「カナン」に入った場合、出エジプトの偉業はモーセによってなされたと民はモーセを神のように崇めるだろう。神はそれを許さなかった。出エジプトという奴隷からの解放はモーセではなく、神がなさったことである。このことを示すために、モーセを「カナン」に入らせなかった。聖書では「モアブの地にある谷に葬られたが、今日に至るまで、だれも彼の葬られた場所を知らない」と墓さえ分からないとモーセの死後を消し去っている。どんなに偉大な業績も、人間の力でなく、神のなされることであると明確に表しているのではないか。

ここに聖書の語る神信仰を読み取れる。そして、これが神による歴史支配の賛美、告白であり、それは同時に人間解放である。