◇牧師室より◇

新年おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。昨年は私たち夫婦の母親が二人とも亡くなったので、世の慣わしに倣って、下記のような葉書を送った。

「喪中のため新年のご挨拶は失礼させていただきます。

 隆雄の母・タケノは229日に92歳で、悦子の母・清子は612日に88歳で天に帰りました。年齢から見れば天寿を全うしたと言えるでしょう。子供たちと信仰のため懸命に生きた生涯でした。私たちの寂しさは深いものがありますが、神さまの祝福を受け天で憩っていると信じています。皆さまの母たちへのご厚情に心から感謝いたします。 皆さまに良い新年が訪れ、喜びに満ちた年となりますようにお祈りいたします。 200412月」

 2005年はどのような年になるだろうか。新しい年を迎えると、誰もが「今年こそは良い年に」と願う。しかし残念ながら、心の荒廃は年毎に進んでいるように思う。人々は生きることに対して大きな「不安」を感じている。その不安に耐え、解消していく力を失っている。自分を痛めつけることによって不安解消を求める人がいる。その典型的な例は、リストカッターで、私は手首がバーコードになっている人を数人見かけた。痛み、血を流すことによって自分の存在を確認するのであろう。ところが、最近は他者を傷つける方に向かっている。その他者は肉親でも、知らない誰でもよく、攻撃的に振るうことによって、不安から逃れようとしているように思える。「私は私であってよい」というアイデンティティーを見出せないことが心の荒廃を生んでいるのではないか。 

主イエスの福音は「あなたはあなた自身であってよい。神はそのままのあなたを愛し、無限に受容している」という内実である。この福音を信じ、受け入れることが「悔い改め・方向転換」で、ここから「安心」した新しい生き方が始まる。私は自分と社会への絶望に中で福音を知らされ、これにしがみついて生きてきた。

教会は、主イエスの十字架による罪の赦しの福音を宣べ伝える使命を与えられている。これは、見えない神からの是認宣言であるから、その宣教は困難である。まず、互いを受容し、大切な存在として認め合うことである。主イエスの愛は、それを生きようとする私たちの行いを通して表されていく。それは当然、人間を否定する力には主イエスの名において「否」を表明していく。

 両親から愛された子供は神の愛の発見が容易であると言われる。人間の愛は限定的であるけれども、神の愛を写し出していく鏡になる。教会は神の愛を信じ、それを表していく群れである。不安の多い時代に「あなたはあなた自身であってよい」との「安心」を宣べ伝え、それを実践する勇気と知恵を得たいと切に望む。