◇牧師室より◇

ローマ・カトリック教会とルーテル教会は19991031日(宗教改革記念日)に南ドイツのアウグスブルグで「義認の教理に関する共同宣言(以下−宣言)」に調印した。5年後の今年の1031日に「宣言」が日本語に翻訳、出版された。同日、聖イグナチオ教会で、カトリック・ルーテル合同礼拝が行なわれ、500人を越す参加者があった。

16世紀、マルチン・ルターがヴィッテンベルグ教会の門に「95ヶ条の提題」を張り出し、以来500年にわたってカトリック教会とルーテル教会は互いに「断罪」を繰り返してきた。それが共同の理解に立つことができたという「宣言」である。

ルーテル教会は当然ながらルターが再発見した「義認論」を強調した。義認に関しルーテル教会は、伝統的にJustificatioを宣義・義認といい、罪の赦しに重点を置き、義と認められるが、実態は罪人であると考えた。

カトリック教会は成義・義化といい、義になって実態が変わることに重きを置き、義認を贖い・救い・神化・祝福・和解の一つとして「恩寵論」の中で捉えた。ルーテル教会の「義認論」とカトリック教会の「恩寵論」が対立した訳であるが、「違い」ではなく、「同じ」ところに注目し、共同宣言に至ったのであろう。

「宣言」の17は次のように謳っている。「われわれはまた次の確信をも分かち合う。すなわち、義認の使信は、キリストにおける神の救いのみ業という新約の証言の核心に特別な仕方でわれわれを方向転換させるということである。その使信は、罪人であるわれわれに新しいいのちが与えられるのは、ひとえに、「罪を」赦し「罪人を」新たにされる神の憐れみのゆえであると告げる。神のこの憐れみを賜物として与えられ、われわれは信仰において受け取る。それは―いかなる形においても― 自力では獲得されない」。

私たちが義認を得、救いに与るのはただイエス・キリストの憐れみによる無償の恩寵であることに間違いない。その共通の理解をささいなことで対立してきたことは残念で、「宣言」の調印はあまりに遅すぎた。しかし、エキュメニカル(教会一致)運動の成果で、分裂と争いが日常化している今日、和解と一致に向けての証になる。

前任教会では、カトリック教会で幼児洗礼を受けた人が転入会し、教団の信仰告白をした。当教会では、二人の方がカトリック教会に転出し、二人の神父に礼拝説教をしていただいた。現場の教会の方がエキュメ二ズムははるかに進んでいる。