牧師室より

私はこの頃「居場所」という言葉に関心を持っている。かつては「生きがい」という言葉が盛んに使われた。生きる意味と価値を認め、それを得ているから「生きがい」がある。これは健康的な生き方で誰もが望んでいる。しかし、最近は「生きがい」という積極的なことは求められない。ただ、安心していられる「居場所」がほしい。そんな切なる願望を持っている人が多い。

障がい者は福祉予算の削減や苛立った社会から「居場所」を奪われている。懸命に働いて高齢になった人たちもやがて、体が不自由になる。その時、安心できる「居場所」を得られたら幸せであるが、得られないと苦しみは深い。健常な子どもたちでも、小山市の二人の幼児が無残に殺害されたように「居場所」をなくし、存在を危うくされている。更に、社会的に「居場所」を奪われ、焦燥感の中で自殺する人は後を絶たない。若者たちの集団自殺には胸が痛む。特異な例でなくとも「居場所」を求める声が聞こえてくる。もちろん「居場所」を得るための努力は大切である。誠実で忍耐強い日常生活から、自分自身であってよいという平安と確信を得ることは確かである。

イエス・キリストは病人を癒し、悪霊に取りつかれた人を悪霊から解放した。彼らは「罪人」と言われ、社会から疎外された「居場所」のない人々であった。イエス・キリストは彼らの病を癒し、悪霊を追放した。それは交わりへの復帰の約束であり、「居場所」を与えたことである。福音書の奇跡物語は、理性的には納得し難いことであるが、存在が否定された人々に「居場所」を与える事柄であったと受けとめる時、強いメッセージとして伝わってくる。更に、イエス・キリストの十字架は「あなたはそのままで『是認』されている」、神によって「居場所」が保証されているとの宣言である。この宣言は大きな平安と生きることに向かっての勇気を約束している。

自分の「居場所」を見出す時、新しい生き方を生み出す。それは互いに「居場所」を認め合い、提供し合おうとする。今日、教会は「居場所」を確保するための宣教と働きにあるのではないか。