◇牧師室より◇

 銀行に勤務しながら、作詞家として数々のヒット曲を出した小椋佳氏が「言葉ある風景」を上梓している。まず、最近見られる言葉の乱れや誤用やカタカナの多さなどを指摘している。そして、諺や慣用語の出典や変化や誤用なども興味深く記している。作詞家として言葉をいかに敏感に受けとめていたかがよく分かる。小椋氏は「白い一日」という歌を作り、「真っ白な陶磁器を」と歌い始めるそうだが、陶磁器という集合体ではなく「真っ白な陶器」か「真っ白な磁器」でなければならない。誤りを承知の上で使ったと言うから面白い。言葉は生きていて多様に、また時代と共に変化して用いられる。

 小椋氏は「まえがき」で「言葉は、その力を信じ込み過ぎると、危険なものです。言葉は、その可能性に寄りかかると、いずれ裏切られるものです。言葉は巧みな人に悪用されると、危うい世界へ人を導くものです。それが真実だとしてもなお、言葉は本当のことを知る手立てとして、表現の手段して、またコミュニケーションの道具として、人間が発明したものの中でも、最も重要視されて然るべきものと、私は思っています」と書いている。言葉は悪用されると、とんでもない悲劇を招くが、真実を知り、互いの関わりを深める最も大切なものであることは確かである。

 「諺で学ぶ、老人のありがたみ」から紹介したい。イスラエルには「家に老人がいることは家にとって吉兆だ」という諺がある。老人の知恵や経験に学べると言っている。聖書の民は言葉に命を賭け、老人を大切にした。ギリシャには「家に老人がいなかったら一人借りてこい」という諺がある。借りてきても老人がいる方がよいと言っている。イタリアには「老人は体の中に暦を持っている」という諺がある。歴史を持っているので、経験に伴う知恵を持っているということであろう。同じように、ポルトガルには「良い忠告を得たいと思ったら年寄りに相談せよ」いう諺がある。これらは老人をプラスに評価した諺である。マイナス評価もある。「年寄りの冷や水」はよく聞く言葉である。ナイジェリアには「老年は治すことができない」という諺がある。「老齢は人が死なねばならない病気だ」と無情な言葉もあるそうだ。「誰でも歳は取るが年寄りとは呼ばれたがらない」という諺は港南台教会の若い高齢者の声を代弁しているようだ。