◇牧師室より◇

 今年の平和聖日は、宗像基牧師の説教と講演を聞く機会を得た。宗像牧師は小井沼宣教師夫妻が遣わされているサンパウロ福音教会を創設された方で、一度お会いし、お話を伺いたいと願っていた。その願いが平和聖日に叶えられた。

 説教は「断食」と題して話された。ヨハネの弟子とファリサイ派の人々は、断食しないイエス・キリストに詰め寄った。彼らは断食という信仰深いとされる行いによって救われると考えていたからである。どうしたら救われるのかと、人間のあり方を問題にしていた。それに対し、イエス・キリストは「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか」と、律法の遵守ではなく、既に救われた喜びの内にあると言われた。宗像牧師は、「どうしたら」ではなく、既に与えられた福音を喜ぶことが信仰であると説かれた。

 午後の講演では、過去のキリスト教会の「十字架と鉄砲と算盤」による三位一体の侵略的な伝道を謝罪するところから踏み出さなければならないと語り始めた。今「なぜ、そのような伝道をしたのか」と問う必要がある。@人を信じる者と信じない者に分け、「救い」は信じる者のみに与えられると限定した。それは「不信心な者を、そのままで義とする」無条件の恵みを放棄することになった。A「聖」という言葉を「浄」「不浄」の差別と排除として理解し、人間に落差をつけて神の偉大さを力説し、浄になるための信仰を強要した。「聖なる神」とは「すべてを愛し、受容する神」のことである。Bイエスを抜きにした神学の横行である。それは勝利、支配、君臨などの力を誇る言葉で語られ、愛を貫き十字架で死んだイエスが消されていった。無条件の恵みを、人間が勝手に選別するという過ちを犯してきたことの反省を迫られた。伝道の姿勢を転換し「神を信じなければ救われない」のではなく「神の無条件の恵みによって既に救われていることを信じてください」という伝道が出発点になると、神の絶対的な恩寵を力説された。

 宗像牧師は今年80歳になられるという。福音宣教の使命に生きる気迫に感動した。活力とユーモアに溢れて語られ、福音の喜びが、慰めと励ましとして心に響いた。