◇牧師室より◇

 「バンザイ訴訟」の判決が最高裁判所から出された。「バンザイ訴訟」は時の神奈川県知事と県議会議長が宗教儀式である「即位礼・大嘗祭」に公費を使って参加したことに対し、返還、損害賠償を求めた住民訴訟である。即位礼の時、高御座に立つ天皇に対し、時の海部首相が低い所から「バンザイ」を三唱した。このことから「バンザイ訴訟」と名付けた。私たち原告は、天皇に睥睨されることなく、国民に主権があると主張し続けた。125ヶ月に渡る裁判であった。

 最高裁は一回の口頭弁論の機会も与えずに判決を出した。その姿勢から判決内容は予想がついていた。しかし、何らかの意見が聞けるのではないかとの期待もあった。開廷され「本件上告を棄却する。上告費用は上告人らの負担とする」と5秒もかからない判決文を読み上げ、裁判官たちはそそくさと立ち去った。

 横浜地方裁判所、そして東京高等裁判所と控訴してきた。どの判決も最高裁と同じで、あっという間の判決であった。しかし、下級裁判ではそれなりの弁論を繰り返し、参考人を立て、問題点を主張してきた。全く聞く耳を持たない最高裁の態度には失望した。

 天皇制に関わる「政教分離」問題を問うことは本当に困難であると実感した。今回の裁判で、弁護士たちの熱意には本当に感謝したい。天皇制に関する膨大な資料を集め整理し、違憲性を論証する誠実さには敬服した。ヨハネ福音書は聖霊を「弁護者」と言っている。聖霊は祈れない私たちの隣りにいて、代わって神に執り成してくださるという意味である。裁判官には聞いてもらえなかったが、弁護士は私たち原告の言えないことを強く、深く代弁してくれた。

 最高裁の判決理由は「即位礼・大嘗祭は社会的儀礼であって、宗教活動には当たらない」としている。誰が即位礼・大嘗祭を考え出したのかは知らないが、思いを込めて宗教行事として生み出したに違いない。それを社会儀礼とされては発案者に失礼であろう。神社側は宗教儀式と考えている。そして戦前、宮城遥拝、神社参拝を日本人だけでなく、アジアの人々にも「儀礼」として強制したことを忘れてはならない。

 皇太子は妻・雅子さんの人格が否定されていると発言した。本当にそうであろう。天皇家の人々に人権を保証することと国民が天皇制の呪縛から解放されることは繋がっている。そして、天皇制を問うことは私たちの内にある「まやかしの権威主義」を排除していく戦いでもある。