◇牧師室より◇

 朝日新聞に大岡信氏の「折々のうた」が再連載し始めた。先日、下記の歌が掲載されていた。「ゆだんしてあさきゆめみししやれこうべしるしの塚にとうば一本 木喰上人」 木喰上人は江戸時代の後期、真言宗の遊行僧で、千体仏造像を発願し、日本全土に木彫仏を残した人であるという。大岡氏は次のように解説している。「油断してうかうか人生を遊びすごせば、末は野ざらしの「どくろ」で塔婆一本立つだけだよ。『しやれこうべ』は野ざらしの髑髏」 全国を巡り歩き、仏像を彫りながら、我が身に課した教訓であろうか。

 中世の修道院では「memento mori(死を覚えよ)」が合い言葉のように使われた。ヨーロッパの教会は死を見近に覚えるように作られている。しかし、死の実態は経験したことがないので誰にも分からない。私は「楽しい」のではないかと期待している。近年、死の準備としての「死生学」が盛んになった。どんなに準備しても、そこまで行ってみなければ、どんな死に方になるか分からない。神さまに委ねるしかない。神さまが迎えてくださるので、信仰深く平安に死ぬことを望むが、恐れ悲しみ、もがいて死ぬのも良いと思っている。

 「死」の受容は「生」の肯定と繋がっている。それが「良く生きた者が良く死ねる」と言われる理由である。死の床で「これで良し」と思えたら幸せである。その幸せを願って、「あさきゆめみし」でない日々を送れば、生きている今が充実し、意味あるものとなる。死の実態は分からないが、「死を覚える」ことは両得になるだろう。 

 妻・悦子の母が89歳の生涯を終えられた。牧師の妻として、教会に仕えるひたすらな日々を送られた。「地上では旅人」が好きな聖句であった。最後の時、ご自分で両手を組み祈りの姿勢で「天の故郷」を確信し、平安に帰って逝かれた。それは感動を与える美しいご逝去であった。