◇牧師室より◇

 朝日歌壇の近藤芳美選の第三首。「この時代おとなも子どももぼろぼろと壊れてしまいそうな街の顔(土佐清水市)宮崎茂美」

 三菱自動車のリコール隠しには唖然とさせられた。人の命を奪うという畏れは全く見られない。小学6年生の少女が同級生をカッターナイフで殺害した事件には言葉を失い、心の凍るような思いにさせられた。死ぬことの重さを想像、認識できていない。米軍はイラク人を赤子の手をねじあげるように痛めつけている。おとなも子どもも、私自身もぼろぼろにくず折れそうである。

 ある病院に行き、港南台で牧師をしていると言ったら、医師から「あの地域は自殺と麻薬の多い所ですね」とこともなげに言われた。私は赴任して、それなりの交わりを持った中で、4人の方が自死された。牧師としての非力を痛切に感じている。これらの方々は病を負い、また「心のあまりの優しさ」が時代の非情さに耐えられなかったと思っている。

 刑務所から出てきたという人が来て、この地域の「ヤク」の配達をしていると言う。麻薬を使う人がいるのですかと聞いたら、「ええ、玄関先で手渡します」と言う。彼は些細なことで前科を負ったため、離婚し就職もできず、暴力団の手先になって配るしかないと涙を流した。この「街の顔」も見えないところで、ぼろぼろに壊れている。

 先日出会った、ある方が次のようなことを言われた。60年代、70年代は「政治の時代」であった。それから「経済の時代」になった。今は「ニヒルの時代」でしょう。青年たちが生き生きしていた「政治の時代」が懐かしい、と。

 三菱自動車の責任者や同級生を殺害した少女や米軍のように、私たちは深い「闇」の中をさまよっている。強い者の横暴と強い者に無批判にすり寄ることが今日の悲劇を増幅しているのではないかと思う。

 聖書は、自分自身と重なる罪の姿を息苦しいほどに記しているが、主イエスの十字架による無限の赦しを宣言し、神の赦しを信じて「生きよ」と語りかけている。この「生きよ」は私一人ではなく、神の愛の下で「共に」である。聖書の告知をどのように聞き、受けとめるかに私たちの信仰がかかっていよう。