◇牧師室より◇

 ファミリーデイの合同礼拝に、エフェソ書214節から22節までの聖句を選び「神の家族」と題して説教しようと準備していた。その週の月曜日、小井沼眞樹子師が教会の方と会いたいと言って見え、10人くらいの方と懇談の時を持った。眞樹子師は、小説家の大江健三郎氏が若い人向けに書いたエッセイの「新しい人」について話された。私は早速、その本を買って読んだ。エフェソ書は「キリストは、双方を御自分において一人の『新しい人』に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」と書いている。

 大江氏は「キリストは平和をあらわす。対立してきた二つのものを、十字架にかけられた御自分の肉体をつうじて、ひとつの『新しい人』に作りあげられたからだ」と聖書の言葉をそのまま受けとめている。そして、読者に敵意を滅ぼし、和解を達成する「新しい人」になる自己教育をめざしてもらいたいと熱意を込めて訴えている。

 私は、大江氏の次の言葉に心を打たれた。「そんなにいうのなら、自分で『新しい人』になったらいい、という反撥が、あなた方の心にわくかも知れません。その通りです。しかし、私はもう老人の年齢まで生きて、自分は古い人だった、『新しい人』になれなかった、と思い知っています。私が一昨年、911日のニューヨークのテロをテレヴィ画面に見ながら考えていたのは、まさにそのことでした。」

 大江氏は、「911」事件、そしてアフガニスタン、イラク攻撃に繋がった悲劇を「新しい人」になれなかった自分の問題として受けとめている。

 キリスト新聞の「ズームアップ」に竹前昇師の講演要旨が掲載されていた。ペトロは夜通し漁をして、空手であった。主イエスはペトロの舟の上から群集に説教した後、「沖へ漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。網を降ろしてみると大漁であった。その時、ペトロは主・イエスに「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とひれ伏した。竹前師はこの聖句から、「『自分が罪深い者だ、という罪意識を持つことなしに救いを喜ぶことはできない』と罪の自覚の必要を訴え、『罪なき者は伝道できない』」と表現された。

 大江氏は、敵意を滅ぼし和解をもたらす「新しい人」になれと勧めながらも、自分自身は「古い人」であると痛みを持って誠実に告白している。竹前師は、「わたしは罪深い者なのです」と告白する中で、主イエスの救いに与り、そこでのみ、伝道が開かれると主張している。私はお二人の認識と告白にこそ真実があると思う。