◇牧師室より◇

 朝日歌壇の近藤芳美選の第一首、「神の使徒荒野に向かい叫ぶとか荒野というは我ら民衆(高崎市)門倉まさる」。近藤氏は「神の使徒らはつねに荒野に向かって叫んだという。そして、荒野とは、我ら民衆でもあったとうたう。聖書か何かからの連想であろうが、作者がうたおうとしているものは今への思いであろう。」と評している。

 洗礼者ヨハネはエルサレム神殿の祭司・ザカリアの一人息子であった。当然、祭司になるべき人であった。ところが、成人したヨハネはエルサレム神殿を捨て、荒野に立った。荘厳ではあるが、腐敗し切ったエルサレム神殿からは神に関わる真実は起こり得ないと捨てたのであろう。ヨハネは荒野に立ち、「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」。旧約聖書の預言者イザヤのいでたちである。

 荒野とは、出エジプトをした後、モーセに率いられ40年間、放浪して苦しんだイスラエル人の原点である。ヨハネはこの原点に立ち、信仰の父・アブラハムの子孫であるなどという既得権はない、今、ここで初々しく神を信じて、悔い改めよと激しく語った。身を捨てて、神の真実を語るヨハネの言葉に、人々は心打たれ各地から続々と集まり、悔い改めの洗礼を受けた。人々の心を神に向けさせたヨハネの洗礼運動がイエス・キリストの道備えであった。聖書は、これが「福音の初め」であったと告げている。

 門倉氏は、荒野は我々民衆が生きている「場」ではないかと歌っている。私たちの生活は潤いのない荒野のように殺伐としてきた。憎悪は増幅されて暴力の連鎖を生み、弱い者は萎縮させられ、人心は荒廃の一途を辿っている。この荒野に向かって叫ぶ使徒はいるか、またその叫びを聞く耳を持っているか。

 荒野とは「原点」である。原点では苦悩を強いられるが、神に立ち返る「場」でもある。神への立ち返りは権力や物やメディアに支配、懐柔されないで、私の「主体性」を回復することである。荒野に生きる民衆の主体性が歴史のあり方を変えていくという希望を持ち続けたい。この希望こそが「荒野」の意味ではないか。荒野を嘆く前に、ここを恵みの場と捉えることが信仰であろう。