◇牧師室より◇
90歳になる本多立太郎氏は色々な雑誌に投書を寄せている。私はその投書をいつも感銘をもって読んでいる。氏は自らの戦争体験を精力的に証言しているが、投書はその戦争体験から平和を求める切実な訴えである。950回目の証言を「中国帰還者連合会−戦争の真実を語り継ぐ」に三回にわたって掲載している。
招集令状がきた時、馴染みの喫茶店に行った。好意をもっていた店の女性が氏の姿から戦場に行くことを悟って、一言も言わず、氏の好きなラベル作曲の「ボレロ」をかけてくれた。しかも、お客さんからのプレゼントと言って
5回も続けて。涙が止まらなかったという。戦争に行くことは勇ましいことではなく、胸が締め付けられることであった。中国で捕虜を銃剣で突き刺した経験も語っている。綿服を着ているので、始めは抵抗がある、力を込めて突き刺すとすっと入る。そして、背中に出ると、また綿服にあたる。何とも言えない感触で、彼らの苦悩の表情が忘れられないという。
氏は「慰安所」には行かなかった。父親から「岩波文庫」が次々と送られてきた。その本を読んで過ごしたからで、父親の配慮が功を奏したと感謝している。
戦場での楽しみは「慰問袋」だった。慰問袋の中の物ばかりではなく、中に入っている慰問文、手紙が楽しみだった。若い兵隊に宛てたものだから、書いているのは必ず若い娘さんで、手紙のやり取りをしているうちに、熱が上がってしまう者もいた。羨ましがっていると、ある日、浮かぬ顔をしているので尋ねると、手紙には「あなたの武運長久をお祈りしようと、今日も村の神社に孫の手を引いて…」と書かれていたという。
氏の場合は大当たりで、宝塚の女優さんみたいな名の女学生であった。手紙には、どこにいる兵隊さんか分かりませんので季節のご挨拶は書けません、ご返事いただければ、ちゃんとした手紙が出せます、そして、「ちなみに私については、高峰秀子が眼鏡をかけてセーラー服を着た姿をご想像ください」と書いてある。氏も喜び、「あなたの素敵な手紙をいただいた幸運な兵隊は、いま、トーチカの中で銃眼からもれてくる月の光を頼りにこれを書いています」(これは嘘)「この兵隊は佐野周二が眼鏡をかけて軍服を着た姿をご想像ください」と書いて送った。
招集解除になり、帰国し、彼女に「帰った」と手紙を書いた。すると母親から「ご無事のご凱旋、おめでとうございます。娘も今年の春、女学校を卒業しました。ですからご縁はこれまでのこととして…」と書いてきた。笑うに笑えない兵隊たちの心情が伝わり、戦争の悲しみが逆に炙り出されている。