◇牧師室から◇

 O兄から「キリスト新聞」を回していただき、読んでいる。「望楼」に興味深い事が掲載されていた。

 米国で実際にあった話だそうである。大事に育てた農作物が若者たちによって、一晩で台無しにされてしまった。裁判が行なわれ、裁判官は被害者である農園主に、若者たちへの意見を求めた。被害者に加害者の扱いについて意見を聞くことなど、日本の裁判では考えられない。農園主は、まず自分の命が奪われなかったことを感謝した。そして「この若者たちを刑務所に入れる代わりに、私の農場でぜひ働かせて欲しい」と言ったという。

 「望楼」氏は「犯罪を犯した人に対して、犯罪に対する『処罰』の処分はあっても、更正させるプログラムは現在ほとんどない。そのため、出所しても再び罪を犯し、刑務所にまた帰ってくる犯罪者が非常に多い」と書いている。そうであろうと思う。

 教会には時々、刑務所から出てきたという人が訪ねてくる。彼らは一様に、前科のため社会に受け入れてもらえず、職を見つけることができないと嘆く。罪を償っても赦してもらえないと苦しんでいる。どうしても再犯の可能性が高くなる。

 農作物を台無しにした若者たちは刑事罰を免れることはないだろう。しかし、農園主の赦しで、働くことを通し、再起できたと期待したい。

 東チモールで、インドシナの民兵として自国民を傷つけ、破壊活動をした人々がいた。東チモールの独立後、彼らは帰国したが、なかなか受け入れてもらえない。村人たちは会議を開き、破壊した建物を修復する作業をさせて、赦そうと決めた。彼らは懸命に働き、赦されたという嬉しい話を聞いたことがある。

 人は誰でも過ちを犯し、犯罪に走ることもあり得る。その過ち、犯罪から再起できる道を広く与えることが成熟した社会ではないか。

 主イエスの十字架は「罪の赦し」である。その赦しは、犯した罪を償わなくてもよいという赦しではない。犯した罪への償いは当然、求められ、社会的責任は果たされなければならない。主イエスの赦しはどんな罪も、その人の人権や命までも奪うことはできない、なお神の是認の中にあるということである。神からの赦し、是認がその人を立ち上がらせていく。

 私は主イエスの十字架にすがって生きてきた。赦しこそが再起への唯一の道である。