◇牧師室から◇

 伝道月間の最後の週、山口雅弘牧師がマルコ福音書213節−17節から「イエスというお方」と題して説教してくださった。

 主イエスに「わたしに従いなさい」と召し出された徴税人・レビは孤独な人生から呼び出されて喜び、自宅に招いて食事会を催した。笑いに満ちた楽しい宴であったであろう。イスラエルでは共に食事をするということは単なる親しさだけでなく、礼拝のような神の国のリアリティーを共有する喜びであった。

 ところが当時、民衆に宗教教育をしていたファリサイ派の人々は、自国民から税金を取り立ててローマ帝国に届ける徴税人や、難病に苦しむ病人を神から呪われた「罪人」と見なし、共同体から締め出していた。彼らとの接触は自らを汚すとして、決して食事を共にすることはなかった。「罪人」を排除することによって正しさ、清さを確保すると考えていたのである。主イエスが罪人・レビと食事をしているのを見て、我慢ならず、弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と詰問した。これに対し、主イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられた。

 山口牧師は「イエスというお方」は人々の間から捨てられた人々を招き、その人々こそが神の国の中心であると告げ、実践された方であると力説された。「あるがまま」の弱さを受け入れ、共に生きる喜びを「福音」として示されたのである。

 ファリサイ派の人々が行なった差別と排除は主イエスの時代だけでなく、今日の問題でもある。生きることに苦しむ人々を疎外し、見えなくし、その上で成り立つ秩序を正当と見なす状況がある。教会においても、整えられた荘厳な礼拝が逆に弱さにうめく人々を排除していることがあるのではないかと、ご自分の経験からも話された。

 自分を正しいと自惚れる人によって排除された人々が、実は社会を変えていく。主イエスはファリサイ派の人々やエルサレム神殿の権威ある宗教家たちによって、「罪人」と断罪され、十字架で殺された。しかし、主イエスは滅ぼされず、復活された。そして、その主イエスの出来事は世界の隅々まで伝えられている。弱さを分かち合い、笑いと喜びの神の国に私たちは招かれている。この招きに応えることが平和を作り出していくと話された。

 10月の伝道月間に、10人の新来会者が与えられた。勇気を奮い起こして見えたと思う。その人々と笑いと喜びを分かち合えるようになりたいと心から望んでいる。