◇牧師室より◇

 サンパウロ福音教会を創設した宗像基牧師は現在小平学園教会の牧師をしておられる。宗像牧師は個人誌「バベル」を出し、歯に衣を着せない論陣を展開し、私も愛読している。第157号は「アジア祈祷日」の説教を掲載しており、興味深く、同感したので紹介したい。

 まず、伝道の歴史において犯した罪への謝罪と反省が必要である。二千年の教会の歴史において、伝道が多くの場合、十字架と鉄砲と算盤の三位一体的侵略で、改宗しない者たちは殺しても当然であるかのような伝道であった。この事実への謝罪と反省は全てに優先するが、同時に「なぜこんな罪を犯したのか」を問わなければならない。「なぜ」を問うことをタブーにすれば、同じ過ちを再び犯すことになる。

 「なぜこんな罪を犯したのか」を問う第一は「救い」理解に関する。キリスト教を信じなければ救われない、信じない人は生きている値打ちもない、滅びだとする神学が現在もある。そして、その神学が伝道のモチーフとなり、エネルギーにもなっている。しかし、主イエスは十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」と祈っている。パウロは「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」と書いている。

 第二の「なぜ」は「聖」理解に関する。主イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」と呼びかけている。「聖なる神」は「凡てを愛し、受容する神」ということである。ところが、「聖」が「汚れ・不浄」を生み出し、排除と分離の概念にされている。パウロは自分を「罪人のかしら」と言い、このような自分が救われているのだから、他に救われない人間はいないと断言している。

 第三の「なぜ」は主イエスを抜きにしたキリスト教の横行である。神の名を持ち出して侵略戦争を正当化する。主イエスを失ったキリスト教は他に勝利し支配し、君臨することを目指す宗教になる。伝道の姿勢と方向を転換させなければならない。それは「あなたも神の無条件の恵みに受け入れられ、救われていることを信じなさい」という伝道である。

 宗像牧師は、罪を弾劾し十字架の赦しを有難がらせて救いに導く伝道は、信じるという行為を誇る人間主義(律法主義)に陥ると指摘する。「あなたは既に救われている」と恩寵の絶対性を説くことが福音的な伝道である。この伝道、信仰が共にあるという喜びを分かち合う。