◇牧師室より◇
養老孟司氏の「バカの壁」という本が売れていると聞き、読んでみた。五感からの入力をx、脳の中で処理して表す出力をyとするとy=axという方程式が成り立つ。係数aがゼロだと行動に表れないで、関係は切れる。aが無限大のケースは原理主義になって他者否定となる。人間の脳の中にある係数aによって対話が成り立つかどうかが決まる。その終章は「一元論を超えて」というタイトルで書かれている。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教派は一元論の宗教で、原理主義はその典型であり、これらの一元論は必ず破綻すると論じている。確かに、聖書の中にも偏狭な民族主義による他民族の抹殺が記されている。今日でも一神教信者という人や、原理主義者には他を不義として否定しているものがある。それがテロという形で表れていると言えよう。しかし、それは聖書の神信仰を正しく受けとめていない。
宮田光雄氏が「同時代史を生きる−戦後民主主義とキリスト教」と題して、学生時代から今日までに書かれたエッセイ、論文などを年代順にまとめて出版している。その中に、朝日新聞に寄稿した「最後から一歩手前の真剣さ」という文章がある。「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」という言葉は宮田氏が愛好するカール・バルトの一句である。「永遠」という視点を自覚する時、人間の営む歴史に対し究極的な真剣さで関わることから解放され、事柄を相対化して捉え直すことができる。「究極的なもの」を深く確信し希望するならば、地上における闘いの勝敗にすべてをかけるのではなく、それらを冷静な姿勢で受けとめ、一歩手前の真剣さも持って関わり、かつ「落ち着いて、朗らかに」生きていくことができる、という。
ボンフェッファーは「究極」と「究極以前」という言葉で語っている。私にとって神は絶対、究極的な方であるが、その神信仰が自分を絶対化するのではない。逆に、神だけが絶対なのであるから、この世の全ては究極以前のことして相対化される。
宮田氏はユーモアと笑いを力説し、それは深い落ち着きと信頼から生まれると下記のように書いている。「私たちは自分自身を笑うこと、逆に私たちの隣人を誠実に受けとめることを学ばなければなりません。それは、私たちが神の恵みに支えられ神の愛の中に生かされていることを知るゆえに、自分自身をそれほど重大視する必要から解放されるのです。」
クリスチャンはユーモアをもって生き、喜びと笑いを広げていく時、主イエスの「人びとの前に光を輝かしなさい」という命令を実行することになると、神の恵みに信頼して生きる自由を勧めている。