◇牧師室より◇

 「国益」という言葉で、それぞれの国が自国の利益を求めて、必死に国際的な駆け引きをしている。国民の生活を与った権力者の責任として当然の務めで、理解できる。しかし、その国益はどのくらいの期間を想定したものであるのか大きな疑問を持つ。今すぐの国益なのか、十年先なのか、百年先なのか。

 百年先とは言わないまでも、その国に住む人々の現実を踏まえ、将来を見通した政策でないと信頼し合う建設的な国際関係は築けない。この時代、権力者は政権保持のため国民に媚びて性急な国益追求に走り、国民もまた目先の利益と安全ばかりを求めすぎている。そして問題は、大国が理不尽な国益を求めていることである。今をどのように凌ごうかと苦悩している国々が大半である。その国々を支えることが将来、真の国益になるのではないか。

 少なくとも十年先から、今をどう判断されるかを想像するならば、昨今の国益論は憲法の前文で謳っている「諸国民の公正と信義を信頼」することから著しく逸脱したものと見えよう。「力の論理」を推し進めている米国への無批判な追従は国益どころか、他国からの軽蔑と国際的な孤立をもたらすだけである。

 教会史において他国を見下げたり、時代の勝者に迎合したりして、拡大と保持を目指した教会は宗教的生命を失っている。私たちにおいても、自教会の保持と成長だけにこだわっている教会は廃れる。他者を信頼し、犠牲を惜しまない教会は福音的生命を保つ。クリスチャンは時代の奢れる価値観に抗して、終末時の神による完成を信じ、主イエスの愛に倣おうとする。愚かで非力と言われようとも、これが福音の真理であり、教会の宣教である。