◇牧師室より◇

 T姉は入院して久しい。私の訪問を喜び受け入れてくださる。私の言うことは全て分かっているが、姉の言うことは理解できないことが多い。自分の思いを伝えられないことはどんなに苦しいことかと思う。先日訪ねた時、ご自分のことを「役立たず」と言われた。姉は開業医の奥さんとして働いてこられた。ご主人を亡くされた後は、点字の翻訳をしておられた。固有名詞の読み方が分からないので出版社に問い合わせていると言い、大部で難解な本の点字翻訳に励んでおられた。役立つことが喜びであったのであろう。その姉が何もできない老齢を嘆いて「役立たず」と言われる。

 私の母は月に1週間から10日ほど、我が家に来る。腰が曲がり痛いと言いながらも、花壇の草取りや掃除や茶碗洗いをしたがる。懸命に働いてきたので、体を動かすことは苦にならないらしいが、「役立ちたい」という思いがはっきりとある。

 人が生きるためには「生甲斐」が必要である。誰かのために「役だっている」という実感がなければ、その生は空しく思われる。しかし年を取れば、姉の言う「役立たず」になることは避けられない。

 私は、他のために何かができる積極的な「生甲斐」という生だけでなく、安心しておられる「居場所」を認め合うことが大切ではないかと思っている。有用な者のみが尊重される価値観では「居場所」を確保することはできなくなる。

 自分の老後のことは見えない。また最近、「居場所」を見出せない人たちが多くなり、不安と憤りが社会問題化している。誰もがいつ「居場所」を失うかも知れない状況にある。

 サンパウロ福音教会に遣わされた小井沼眞樹子宣教師は、言葉が出せず寝たきりのお母さんを長く看病しておられた。師はそのお母さんを「存在そのものがいい」と言っておられた。本当に美しい平安な顔をしておられた。人の世話にならなければ生きられないことを悲しみ苦しんだだろう。そこから抜け切り、自分の弱さの全てを受け入れ、素晴らしい顔になられた。師から「存在そのものがいい」とされ、「居場所」を確保されたからではないかと思う。

 「役立たず」の人が実は「役立っている」、非存在から存在へというのが主イエスの福音である。この福音的視点で、互いの「居場所」を認め合う心構えと訓練が必要ではないか。社会的弱者にどのように対応しているかによって、社会の成熟度と品位が計られる。