◇牧師室より◇

 ドイツの神学者マルチン・ニーメラーは次のように書いている。「ナチスが共産主義者を弾圧した時、私は不安に駆られたが、自分は共産主義者でなかったので、何の行動も起こさなかった。その次、ナチスは社会主義者を弾圧した。私はさらに不安を感じたが、自分は社会主義者ではないので、何の抗議もしなかった。それからナチスは学生、新聞、ユダヤ人と順次弾圧の輪を広げていき、そのたびに私の不安は増大したが、それでも私は行動に出なかった。ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた。そして私は牧師だった。だから行動に立ち上がったが、その時はすべてがあまりにも遅かった。」

 今の日本の社会、政治はニーメラーが味わったのと同じような状況になっているのではないか。周辺事態法、盗聴法、住民基本台帳ネット、個人情報保護法、そして有事法と戦争準備とその戦争に国民を組み入れていく法整備は矢継ぎ早になされている。  

 教育においても、「日の丸・君が代」が強要されている。文部科学省が子どもに配布した「心のノート」などを用いて熱心な愛国心教育がなされている。そして「教育基本法」の改定ももくろまれている。

 国民の人権が制限され、財産も政府の手の中に置かれる。「異議申し立て」を言うことが著しく困難になっていく。戦争を始め、時代の苦悩と悲劇は社会的弱者、少数者に皺寄せして押し寄せる。強者と弱者の二極化が間違いなく進行している。

 主イエスはファリサイ派の律法学者から「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と批難された時、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えられた。徴税人や罪人は当時、神の名による「差別管理社会」の中で、人間とは認められずに捨て置かれた弱者であった。主イエスは彼らこそ、真っ先に神にあって「存在する」と語られた。弱い人、弱い時にこそ神の真実が見える。その声を聞きなさいということではないだろうか。

 気がついた時、私と隣人の存在が奪われていたというような社会であってはならない。