◇牧師室より◇
キリスト教はナザレのイエスに神を見るという信仰である。ヨハネ福音書
14章7節に「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている」と記している。イエスを見た者は既に神を見たのである。ユダヤ教は人間イエスに神を見ることはあり得ないと主張する。神の子を自称するイエスは神を冒涜する者と写った。全知全能の神は見えない神で、ユダヤ教の主張を正当化するであろう。キリスト教は論理的には躓きであるが、あくまでナザレのイエスに神を見るのである。このことの意味は大きい。
ブッシュ大統領は聖書を引用し、信仰深い言葉で演説している。その演説にしばしば「神」という言葉が出てくる。ところが、注意深く聞いていても「イエス」の名を耳にしたことがない。神はどのようにも用いられ、自分に都合よい神に仕立てられていく。「神の名による報復」とは言えよう。旧約聖書に多々記されている。しかし、「イエスの名による報復」とは言えまい。イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と語っておられる。
受難週を迎えた。イエスは力で相手を打ち負かすのではなく、苦難を負い十字架で死に、敗北する道を歩まれた。新約聖書はこのイエスの苦難と死によって、人間の罪を赦すという「絶対是認」を宣言している。キリスト教はこの宣言にアーメンと承服し、ナザレのイエスをキリスト(救い主)と告白するのである。
今週の受難週祈祷会で、イエスの苦難と死を見つめ、神がイエスにおいて現した人間の救いを改めて問い直したいと思う。