◇牧師室より◇

 キリスト教放送局 日本FEBCから主日礼拝取材を申し込まれ、1124日に決まった。ちょうど、H姉が帰国し、彼女と日程の調整をしたところ1124日となった。私は彼女の説教を多くの人に聞いていただく良い機会になると喜んでいた。FEBCから確認の電話をもらった時、その旨を話し納得していただいた。当日の取材後の挨拶でも、放送すると言っていた。

 ところが後日、FEBCから放送取り止めの手紙がきた。その手紙を転載したい。「FEBCの主日礼拝番組『全地よ、主をほめたたえよ』の企画意図は、イエス・キリストの父なる神を拝む礼拝であることで、その意味で御言葉の解き明かしによる、十字架と復活の主イエス・キリストの告白を基本としております。(中略)人道的な活動のお話もよいのですが、今回のものはお聴きするまで想像もしなかったお考えで、FEBCの主日礼拝番組の意図とは、基本的にあまりに隔たりがあるように存じます。従いまして、今回は大変残念ではありますが、放送を取り止めることにさせて頂きます。」

 H姉の説教は人道的な活動報告で、イエス・キリストの十字架と復活の告白に基づく、御言葉の解き明かしではない。従って、神への礼拝とは言えないと読み取れる。私は、このような考え方がキリスト教の宣教を阻んでいるのではないかと思う。イエス・キリストの十字架と復活が神学的な議論として弄ばれ、具体的な人間の生と死に関わる福音として受け止められていない。十字架と復活は人間の罪の大きさとその罪の赦しが啓示された恵みの出来事で、既に私たちの間に与えられている喜びである。

 H姉はフィリピンにおける悩ましい罪の現実を自らの罪(十字架)として担い、復活を信じるから、彼らと共にあろうと17年間、喜んで留まり続けている。

 言葉だけの、また幅の狭いキリスト教理解ではなく、具体的な生活の中で十字架と復活に与って生き、それを分かち合う。そこに、神を崇める真実な礼拝が生まれ、生きたキリスト教の宣教が開けるのではないか。H姉の信仰と生き方を「人道的」と見なす視野の狭さが残念でならない。