◇牧師室より◇

  朝日新聞に大岡信氏の「折々のうた」が再開され、楽しんでいる。「二歳児の自我の芽生えははっきりと手を添えやれば<No>と払いぬ 千田政子」を掲載し、次のようにコメントしている。「作者の娘はカナダ人と結婚、男の子が生まれた。この二歳児が日本の祖父母のもとにやってきた時の小さな出来事を歌ったものである。日本人はイエス、ノーをはっきり言えないことが多いといわれるが、ここではハーフの二歳児に身をもって教えられ、大切な事を赤ちゃんから学んだのが、祖父母。」

 S姉は、ドイツのお孫さんが言葉を覚え始めた頃「Ich(私) Nein(否)」を連発するので、ご家族は「イッヒ ナインの守」というあだなをつけたと笑っておられた。自分を中心にイエス、ノーをはっきり言う文化があるのであろうか。

 日本でも「Noと言える国」とかいう本が出版されていた。最近は、東京都知事の石原慎太郎氏がノーを連発している。石原氏の場合、「三国人」また「北朝鮮の拉致には武力を持って解決する」という発言が示すように、排外的な民族主義に根ざす時代錯誤のノーである。

 福沢諭吉だったと思うが、米国会議では喧喧諤諤の議論をするが、それが終わると旧知の友のように親しく会話しているのを見て驚いたと書いていた。

 日本人はノーと言われた場合、自分の人格に対してノーと言われたように、全否定として受け取るのではないか。確かに言葉は人を表す。しかし、意見・事柄に対してノーを言うのであって、人格への否定ではない会話や議論ができるように成長することが大切であろう。意見が違っていても排除・拒絶するのではなく、受容し合う。受容は安易に「イエス」と同一意見に流されることではない。相手の人格を尊重し、お互いが変わり得ることに信頼し、多様性を認めることである。

 主イエスは、当時の宗教者たちの偽善性を激しい言葉で弾劾された。しかし、彼らのためにも死なれた。根本的な受容があった。そして、受容・赦しこそが変革・悔い改めを可能にしてくれる。イエス、ノーをはっきり言い、かつ「共生」に向かって自己変革する自由と勇気を持ちたいと思う。