◇牧師室より◇

 横浜二ツ橋教会のT.T兄をお招きして「平和聖日礼拝」を守った。T兄の説教は多岐に渡り、まとめることは難しいが、私の聞いた要旨で記したい。冷戦後、そしてバブル崩壊後の混迷している現代の諸相から話された。見えるところでは一見華やかであるが、経済不況の中で3万人を越す自殺者が出、若者も自分の将来に希望を持てないとアンケートに答えている。不安と恐怖に包まれ、無為に「だだよう」時代と言わざるを得ない。この時代をどう生きるかを聖書に聞いていきたい。

 T兄の若い時の教会生活では、「神と私」という近代的観念論で信仰を個人的な、そして精神的なこととして捉えていた。しかし、聖書は揺れ動く歴史のただ中で、苦闘しながら生きる人間の言葉と行動がリアルに描かれている。

 イザヤ書6517節−20節の「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。…… そこには、もはや若死にする者も 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。」から話された。この言葉は第三イザヤと言われている無名の預言者の言葉である。彼はバビロン捕囚から解放され、エルサレム再建を目指す時代の預言者として立った。国の再建という希望に満ちた時代であったが、内実は混迷を極めていた。その中で黙示文学的に「神による新しい時代の到来」をユートピア的に語った。T兄はこの希望が私たちを立たせるのではないかと話された。

 「旧約を読む会」では、ちょうど第三イザヤを読んでいる。エルサレム再建は進まず、人心は腐敗、堕落していた。彼は絶望の中から「終末論的」希望を語った。神が直接関与する終末的信仰が、今の苦悩を共に分かち合いながら突き抜けていく、責任的な生き方を可能にする。彼はこの信仰を民に語ったのある。

 午後の講演会でも、グロバリゼイションの名の下であらゆる分野で二極化が進んでいるが、教育においても出来る子にはエリート教育をし、出来ない子は放置する状況がある。学校現場の荒廃の様子を縷々話された。聞いていて胸が痛んだ。子どもは時代を写す鏡である。まず、大人がしっかりすることが大切であろう。