◇牧師室より◇

 雨宮栄一先生が著された「主を覚え、死を忘れるな カール・バルトの死の理解」を慰め深く読んだ。雨宮先生は「ドイツ教会闘争」研究の日本における第一人者である。現在、福祉従事者を養成する中部学院大学教授をしておられる。「死生学」の講座が新設され、キリスト教の立場から死の理解を探求し、この本を執筆された。

 ディートリヒ・ボンヘッファーは絞首刑になる前日、よき理解者であったベル主教に「これで終わりです。わたしにとっては生きることの始まりです」と伝言した。自分の刑死の中に、主イエスの復活の命が隠されているから、生の始まりと語ったのであろう。このボンヘッファーの言葉から、20世紀最大の神学者カール・バルトの「老いと病と死」の理解について論述している。

 まず「老い」は単なる老化や、経験による知恵を身につけることだけではない。人は神の憐れみによってのみ生きるという聖書の使信を深く知りうる恵みの時である。老人の知恵とは、若い時のように気負いをもって自分が主体となって神と出会うのではなく、神が自分と出会ってくださり、受け入れられ、そのような仕方で神に服従することが赦されていることを知る知恵であるという。

 「病」は神の創造を脅かす力であるから、これに抵抗(治療)することが人間の誠実な生き方である。しかし同時に、病は「死の前形式」でもある。自分の生が限定されたものであること、また生を貸与してくださった方に再び返して委ねなければならないことを自覚する。病の中で明らかになる「死の国の侵入」に降伏するのでなく、病を与え、その病の中で死なしめ給う神に降伏する。その時、病の持つ「永遠の命の前形式」が自覚されるという。

 「死」は様々な不安と恐れを伴うが、まず熟慮せよと言う。この「死を憶えよ(メメント・モリ)」は広く言われている。キリスト者はその内側に「主を憶えよ(メメント・ドミニ)」を想起する。死とは、私たちのために十字架で死に復活された主が待ち受け、出会い、そうするように招いてくださることである。永遠の神は「一度だけの機会」を与え、過ぎ去り行く人間一人一人を忘れることなく死を超えて関心を持ち給う。したがって、人は死において神のもとに行く。それゆえに「神こそわが望み」と告白できるという。何と慰め深いことか。

 後半、バルトとハイデガーの違いを論述している。ハイデガーは人間を「死への存在」と捉え、死を熟慮した哲学者である。彼はナチズムに賛同、協力した。バルトは「反ナチズム」の神学を構築した。死理解の違いが両者の社会的関わりを分けたという。私たちの福音理解はそのまま生き方、社会との関わりを決めていくことを改めて示された。