◇牧師室より◇

 電車の中で大人がマンガ本を読んでいるのを見て驚いたのは何年前だろうか。今では当たりまえの風景になっている。マンガ文化の重要性も承知しているが、評論家の大宅壮一氏がテレビの出始めた頃、「一億総白痴化」と言った言葉と重ね合わせて思う。私たちの情報収集と分析は映像的になっていることは確かである。それは活字離れを意味している。

 落語家の桂文珍氏は若い頃、時代に遅れまいとしてシンセサイザーやコンピューター・グラフィックスなどを採り入れたそうである。今は、「落語は人と言葉が真ん中にある」と考え、「映像ばかりに頼ると言葉が劣化します」と言っている。

 お茶の水女子大学教授の数学者・藤原正彦氏は「読書離れ 情緒の低下が国滅ぼす」と新聞に寄稿している。過剰な情報に溺れ、本質を選択する能力を失っている。選択能力は理論的思考ではなく、「情緒」によって得られる。そして、その情緒力を育むには生活体験が大切であるが、限界があり、読書が主役を担う。愛や正義や勇気は感動の物語や小説や詩歌、もののあわれは古典、他人の不幸への感受性は、良い教師であった貧困を失った今、悲しみやつらい運命を描いた作品に触れるのがよい。読書離れが情緒力の低下を招き、価値判断の能力を減退させていると述べている。

 言葉に命をかけたのはイスラエル民族であろう。三千年前から先祖の信仰と文化を言葉によって継承し、それを「旧約聖書」という形で残した。その聖書には平和と戦争、崇高と堕落、正義と腐敗など、人間と歴史に関わる多様な事柄が記録されている。キリスト教は「言葉の宗教」として「新約聖書」を加えて編み上げてきた。聖書の言葉は想像の世界を広げ、時代を越えた共通性、共時性をもって、人間と社会のあり方を問いかけている。