◇牧師室より◇
岩波新書の「テロ後 世界はどう変わったか」で12名の方が、「9・11テロ」とその後について多角的に論じている。京都大学の岡真理助教授の視点を興味深く読んだ。女性の持つ優しく鋭い感性で、苦難と死を強いられた一人一人の顔を思い浮かべながら論じているように思えた。
映画「カンダハール」を撮ったイラン人のモフセン・マフマルバフ監督は、バーミヤンの石仏がタリバンによって破壊された時、「私は、あの仏像は誰が破壊したのでもないという結論に達した。仏像は恥のために倒れたのだ。アフガニスタンに対する世界の無知の恥からだ。仏像の大きさなど何の足しにもならないと知って自ら倒れたのだ」と語った。監督はまた、10万人のアフガン人が素足で逃げる、最後の審判を連想する凄まじい地獄の光景を目撃した。その光景は世界のどのメディアにも流されなかった。「アフガニスタンが持つ多くの悲しみのために世界の誰かが死んでもおかしくない。この悲嘆のために一人も死なないとは何と不思議なことだろう」と語っている。
石仏が恥辱のあまり自ら崩れ落ちた時、人間は恥ずかしげもなく生きていられるのかという問いかけから、岡助教授はプリーモ・レーヴィの「私は人間であることが恥ずかしい」という言葉を想起したと書いている。レーヴィはナチズムの強制収容所・アウシュヴィッツから生還し、戦後、その体験と実態を著してきた。あるドイツ人が「ドイツ人であることが恥ずかしい」と言ったところ、レーヴィは「私は人間であることが恥ずかしい」と答えたという。
岡助教授は、米英国のアフガン攻撃を断じて赦してはいけない、しかし、彼らを弾劾することが自分の無実を表わすことではない。世界に対して負っている「責任」を注視することなく、高みから批判することは、米英国と同じ破廉恥なことである。マフマルバフ監督が、バーミヤンの石仏が恥じて崩れ落ちたという、あのまなざしで人間を見ることができるかと書いている。
豊かで強い側からの一方的な報道によって「自由と民主主義」が刷り込まれ、攻撃は正当化される。その攻撃の下には愛する家族を持つ同じ人間がいることは考えられてない。この理不尽に流された血の「うめき」は遠い彼方のことではなく、私にとって何であるかが問われている。