◇牧師室より◇
ある方のお見舞いに行った。私は、長居して疲れないように心がけている。その方は体力も気力も回復し、かなり長い時間、楽しく話し合うことができた。結婚当初、両親から三日にあげず、案じて励ましの手紙がきた、それが山のようにあり、自分の宝であると話された。両親から愛されて育った人には落ち着きと優しさがある。手紙の山の中にラブレターもあるのではと聞いたところ、「ある」との返答だった。そして、主人も自分の手紙を持っていてくれたと嬉しそうに話された。「往復書簡を出版されたらどうですか」と申しあげた。電話のない時代、手紙を期待して郵便受けを覗き込む姿が目に見えるようだった。
今は、電話はもちろん、ファックス、Eメール、携帯電話と連絡手段は多様で、即座に伝え合うことができる。仕事はやり易く、携帯電話で、どれほど多くの命が助かっているかと思う。伝えたい思いが伝わらず、聞きたい思いが聞けず、悶々とした時代とは格段の違いである。しかし、悶々とする中で、心が深くなり、大げさに言えば、思想が養われるのではないか。安直に伝わらない中で、あれこれ思い巡らすことに意味があろう。主イエス誕生の時、羊飼いたちの幼子イエスへの礼拝・最初のクリスマスに触れて、母マリアは「これらの出来事をすべて心に納め、思い巡らしていた」とある。聖書を読んで思い巡らしていると、新しい発見にハッとさせられることがある。
便利さには功罪がある。便利になって仕事がはかどれば、その分時間の余裕が生まれるはずだが、かえって忙しくなっているのはどういうことだろうか。多忙は有用な人間であることの証拠とされよう。しかし、「忙」の字の通り、心を失う危険が多々ある。
最近、「スロー・ライフ(ゆっくり人生)」という言葉をしばしば聞く。悶々と待ち続け、思い巡らして、人を思いやる心を回復することが大切ではないか。病院の談話室でのんびり話しながら、自戒を込めて、そんなことを思わされた。