◇牧師室より◇
イースター、おめでとうございます。キリスト教は「十字架で死んだイエスは復活し、今も生きておられる」という宣教から始まりました。死を突き抜けた神の命のリアリティーが弟子たちの信仰の原点でした。そのイエス・キリストの復活は歴史的出来事としてどのようなことであったのかを知ることはできません。福音書の記述は矛盾し、復活宣教のため構成加筆されたものと思われます。パウロは「霊の体」の復活と書いています。「霊」とは人間の世界を越えた信仰において認識されるものです。死人の復活などあり得ないと思ったトマスに対し、復活したイエス・キリストは釘で打たれた手と槍で刺されたわき腹を示し「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と語っています。復活信仰は実証的な人間の知恵から見れば「愚か」と見えるでしょう。しかし、私たちは見てはいないけれども信じる。そこに神の命に与る確かさを受け取っていくのです。
ペトロは十字架の前で挫折しましたが、復活のイエス・キリストに出会った後、最高法院で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と断言しています。パウロはクリスチャンを迫害していましたが、復活のイエス・キリストに捕らえられてからは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語っています。
私は生きることの空しさから抜けきれませんでした。その私に対しイエス・キリストの復活は「生きよ」との招きであり保証でした。ペトロが、生まれながら足の不自由な男に「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と語った言葉は、そのまま私への言葉です。